文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年2月27日】師父が済南で説法された日はとても暑く、学習者はパタパタと扇子であおぎながら、師父の説法を聞いていました。この問題について、師父は説法されました。一部の学習者は師父が話し始められると、すぐに扇子であおぐのを止めました。止めた途端に涼しい風を感じました。しかし、ほかの一部の学習者は師父の話を信じることができず、続けてあおいでいました。結局あおげばあおぐほど暑くなりました。この事を通してある問題がみえてきました。つまり師父の話を信じるかどうかのことです。大して変わりのないように見えますが、他の空間で現れてくる修煉の境地の差が、ここで大きく出てきました。
この事から、今年は中国本土向けに神韻公演の映像を提供しないことを思い出しました。神韻DVDなどを海外へ持ち出したすべての同修は、この問題において自分は師父の要求通りに行っていなかったことを、考えるべきです。私が所在している所では、一日も早く衆生に神韻公演を見てもらえるように、毎年大量のDVDケースと表紙などを事前に用意しています。今年、神韻DVDを発行しなければ、用意した大量のDVDケースと表紙は無駄になるのではないでしょうか? これはまだ一つの小さな県のことですが、全国で合わせると、いったいどのくらいの経費の無駄になるのでしょうか?
何より衆生が神韻DVDを通して、救われることが出来なくなったことは、計ることのできない大きな大きな損失です。これは即ち師父の要求通りに行わなかったことがもたらした、最も厳粛な事実の一つです。
近年の師父の説法を拝読しても、時間を節約するため、師父は挨拶なしでと要求されましたが、最初の数枚の質問は、やはりどこどこの学習者が挨拶した内容でした。これらの学習者には、毎回言われている師父のこの種の話が聞こえていないのでしょうか? なぜ師父のおっしゃるとおりにできないのでしょうか? そこを拝読する度に、いつもそう思うのですが、世界中、師父に挨拶したくない大法弟子がいるのでしょうか? 挨拶したい気持ちは理解できますが、師父は宇宙で法を説かれていますので、要求されたことに対して、大法弟子は直ちにその通りに行い、無条件に実行するほかありません。他のことでもそうで、理解できなくても少しも変更せず、その通りに行ってこそ、師父に対する正しい信念ではないかと思います。
数年来、私は多くの年配の同修と一緒に活動してきて感じたのですが、、あまり知識がないがゆえに、深い認識も言えません。しかし、多くの年配の同修は、師父への強い信念を頼りに今日まで歩み、全力で三つのことを行い、自分の誓約を果たしています。本当に、本当に素晴らしいです。年配の同修たちと交流すると、師父が要求されたことを確実にやり、注意を受けたことは絶対にやらないと言うのです。この点は私たちが見習うべきで、本当に敬服します。
私の天目が開いていないので、他の空間が見えないし、感じることもあまりありません。ただ、ひたすら師父のおっしゃることを信じるだけです。弟子として師父の話を聞く以外、道がないと分かっているからです。私にとって本当に信じるとは、つまり師父のおっしゃる通りに行い、いかなる個人の観念も加えず、ほんの少しでも変更したりしないことです。
現段階のわずかな悟りですが、間違いがあればご指摘をお願いします。