文/青年大法弟子
【明慧日本2016年4月1日】私は大学3年生です。色欲心を抱えながら、重視できず、男性と付き合う時、節度を保てばいいと思っていました。また『轉法輪』の中で師父が説かれた「われわれの法門では、常人の中で修煉する人に対して、和尚と尼僧になるように要求しているわけではなく、若者たちはこれからやはり所帯を持たなければなりません」、を勘違いして、若者は恋愛し、結婚するのが当然だと思っていました。自分の色欲を取り除かないだけではなく、師父の説法から口実をつけていましたので、師父に顔を向けることができません。修煉者として所帯を持つのは、常人社会の状態に符合するためであり、子孫を残すためなので、人間の情を求めるものではなく、常人のようにするのは尚更いけません。試練の中で心性を守り、これらのことに淡泊であるべきです。
とくに大学2年の時、私はきれいな洋服に夢中になり、同修である母も自分を見守ってくれる彼氏を、早く見つけるようにと催促しました。今考えてみれば、修煉者は師父に見守られ、宇宙の中の最も幸せな生命として、大法の指導があるのに、なぜ常人に見守られる必要があるのでしょうか?
しかし、大学3年の後期に、私はインターネットで知り合った男子学生と付き合い始めました。そして、男子学生が描いてくれた将来の生活に憧れ、情と色に左右され、この世にやってきた目的を忘れかけていました。例えば、インターネットを通じて顔を合わせる前に、嫌われるのを恐れ化粧をし、彼からの返信が遅く或いは長い間連絡してこないと落ち込んでしまい、通話する時の声も普段と変わっていました。完全に色魔に操られていたにもかかわらず、楽しんでいました。内に向けて探せば探すほど、自分が師父の期待に背いてしまったと、ますます感じるようになりました。
そして、よく奇妙な夢を見ました。ある日私は夢の中で父に言われ、車で市場のあるおじさんに野菜を届けに行きました。帰り道で遠方に1人の無頼を見かけました。無頼が道路を渡ろうとしていましたが、通行の車が止まらず、ぶつかるのを恐れ、渡らずに道端に戻りました。しかし、私の運転している車が近づいていくと、無頼は恐れるどころか、かえって私の車にぶつかってこようとしました。私は怒って、闘争心が湧いてきて、無頼を罵りました。無頼も負けずに私を罵りました。
それから、私は無頼を避けて走り続けると、道は凸凹になっているのに気づきました。道路の状況を確認しようと車から降りると、道を間違っていたと分かりました。引き返そうとしたところ、車がなくなっていることに気づき、怖くて慌てました。そして、家に帰ることができず、市場へ探しに行きましたが、市場になかったので、先ほどのおじさんの家に行きました。車を無くしたことを伝え、それに「その車は父のものではなく、借りてきたBMWなので、家の経済力では弁償できません」と言いました。
私はとても悲しんで、胸を叩いて、「これが夢であれば、どんなにいいでしょう? なぜ現実のようにはっきりと、目が覚めないのでしょう?」と涙を流しながら言いました。目が覚めるよう、一回一回自分を呼びましたが、覚めない自分は、まさに情に陥って目が覚めない自分と同じだったと、夢の中で感じました。
しかし、悲しんでいる私を見て、おじさんは気楽に椅子に座って、脚を私が座っているソファに乗せて、「今経験しているのはすべて夢だ」と言いました。それを聞いた私は、そうだね、常人のいわゆる幸せや、極楽なんかすべて夢なのだと思いました。
すると、おじさんの奥さんはご飯を持って入ってきました。しかし、ご飯を食べる時、なぜか母もいました。母はおじさんの隣に座って、2人はまるで私がいないかのように、笑いながら楽しそうに話していました。なぜおばさんは一緒に食べないのか? 父はまたどこへ行ったのか? と疑問に思いました。
この交流文を書きながら、突然母にも取り除かれていない色欲心があると分かりました。そして、交流文を書き終えて、母に電話をしてこのことを交流しました。同修の皆さんにも色欲心やほかの執着心によって、本当の家に帰る道を塞がないよう、注意してほしいと思いました。現世のすべてはまた夢の中ですので、決して自分が犯した誤りをそのまま残して正さず、待ちに待った千万年来の誓約に背かないように、遺憾を残さないようにしましょう!