文/山東省の大法弟子 復一新
【明慧日本2016年4月5日】師父は「トラブルがなければ向上もありません」と説かれました[1]。この部分の説法は数百回ないし千回暗記していましたが、実際にはその真義を悟れませんでした。昨年学法グループで起きたことを通じ、上記の説法について少し悟ったことを同修たちと分かち合いたいと思います。
今参加している学法グループはいつも穏やかで、数年間一度も衝突はありませんでした。しかし昨年10月ごろ、集団学法の時、ある年配の同修が理由もなく私を怒鳴りました。当時は黙って何も言わなかったのですが、心の中は穏やかでなく、タイミングをみて怒った理由を聞いてみたかったのですが、なかなか機会が見つかりませんでした。数日後、学法グループで発正念をしている時、その同修がまた「私に向かって発正念しないで」と厳しい顔をして言いました。そのときは無意識に「はい」と返事をしましたが、家に帰った後、いったい自分はどんな過ちを犯して同修に嫌われたのかと反省しました。いくら探しても、表面上のことばかり考え、自分を守るという基点から原因を探したため、根本的な原因を突き止められませんでした。
先週学法が終わってから交流をする時、私はその同修に「自分は昨年いろいろな面で不足があったので、今年は必ず師父の教えに従い、人心を取り除きます。特に口を修めることを重視し、無意識に話したことが知らない内に同修を傷つけたかも知れません」と話すと、その同修は「自ら自分の過ちに気づき、認めてくれてよかったです。でなければ、私は指摘するつもりでした。昨年、交流する度に、あなたはいつも、私、私、私と自分のことばかり話して、自分のことに固執しすぎでしたよ」と教えてくれました。
同修の話を聞いて、私は冷静に自分の過ちを反省しました。なんと良い同修でしょう! 面と向かって私がなかなか気づかなかった深刻な問題を指摘してくれました。まさに同修に言われた通りです! 私は子供のころからよく人と争い、自尊心が強く、少しでも不当な扱いをされたり、人に指摘されたら全然我慢できず、自分に固執し、自分を守り、自分を実証する心がとても強かったのです。修煉してからこれらの人心を取り除くために、多くの魔難に遭いました。内に向かって探さず、いつも涙をたたえて忍び、修煉はいつも受身でした。今回同修に正面から言われた時、冷静に聞き入れ、すぐに今までの顕示心や歓喜心、自分を実証する心、同修を見下す心、焦る心、ひとりよがり、口を修めないなどの人心をはっきり認識することができました。今度こそこれらの人心を見逃さず、修煉者らしく取り除かなければならないと思いました。
帰宅途中、自分の各種の人心や不足を探しました。この文章を書きながら、心の中でその同修に感謝しています。このことを通して、師父が仰った、「トラブルがなければ向上もありません」[1]の法理について、深く理解し、悟ることができました。トラブルが起きたことは悪いことではなく、その中で自分の人心、執着に気づくことができ、それを取り除き、心性を向上させることができます。自分を着実に修め、真に内に向かって探し、私(し)の為、自分の為というような考えから抜け出すことができます。昨今の中国社会の中で、常人が善意を持って相手の不足を教えてくれるでしょうか? 誠心誠意、お互いの執着を教え合うことは大法弟子の中でしかできません。重ねて修煉を助けて下さった同修に感謝します。私は師父の教えに従い、着実に自分を修め、師父に託された三つのことをしっかりと行います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『米国西部法会での説法』