文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年9月20日】古代に呉新と言う読書人(学問を積み、科挙を受けて官になった人)がいました。ある日、呉新は新調した一番よく似合う服を着て仙人の試験を受けに行きました。しかし、途中で、突然ある女性に汚水をかけられましたが、文句一ついうことなく、内に向けて、なぜ自分はこのようなことに遇ったのか、もしかしたら、自分は、華麗な服装にこだわり、表面だけを修めようとする顕示心があるのではないかと考えました。
そこで、呉新は家に帰って、普段着の清潔な服に着替えて、再び出直しました。しかし、途中で、今度、男の子におしっこをかけられました。呉新はやはり心を動じず、男の子を恨まず、内に向けて探し、なぜ自分はこのような侮辱に見舞われたのか、もしかたら、自分の忍耐がまだ足りないのではないかと考えました。そこで、彼は家に帰って、今度は、ボロボロの服に着替えて、「もし、今度、服がまた人に汚されたら、もう着替えることはしない。なぜなら、服が汚れても私の心は綺麗だから」と考えました。
この心が生まれると、もう彼の服に汚水をかけたり、おしっこをかけたりする人がいなくなり、彼はとても順調に仙人の試験場に駆けつけました。そこには、すでに仙人の試験を受ける多くの人が集まっていました。みなはきちんとしたきれいな服を着ており、ボロボロの古い服を着ているのは、呉新だけでした。みんなは呉新を笑いものにし、甚だしきに至っては、彼は試験官に対して不敬だと言う人もいましたが、呉新は依然として心を動じず、競争心、顕示心はまったくありませんでした。
この時、突然試験官は、「試験の結果を発表します。1位は呉新です」と発表しました。人々は皆彼に驚きの眼差しを向けました。「どうしてこのまったく目立たない人なのか? ありえない」と皆はあれこれ議論しました。
この時、呉新はボロボロの服を脱いで、仙人の服に着替えました。そこで、試験官は神の姿になり、「私は何度も何度も仙人の試験に来る途中で難問を設けました。それぞれの人に異なる問題を出しましたが、結局、呉新は見事に答えて、すべてが正解でした。この目立たない若者は、顕示心、焦燥心、競争心、闘争心、怨恨心を修め落とし、取って代わったのは、仙人が備えるべき慈悲心、忍耐力、寛容、包容、平和、知恵でした。ですから、1位は彼でしかありえません」と言いました。
ここから、私は思いました。小道での修行でさえ、これほど心性が求められるのだから、私達大法弟子はなおさら正念を持って、修煉の道で出遭ったすべてのことに対処すべきではないでしょうか。言い換えれば、私たちの修煉は一体何を修めているのか、ということではないでしょうか。以上の物語が語った道理について、私たちは誰でも分かりますが、肝心なのは、実際の修煉の中で、いつも内に向けて探し、すべての事に対して大法の要求に基づいて、自分を律することができるかどうか、「做すところ到るは是れ修なり」[1]をやり遂げることができるかどうか、ではないでしょうか。
昨年5月、師父は迫害の元凶を告訴するという天象を現されました。常人の情勢からでも、私達は時間の緊迫感を感じることができるでしょう。今年5月、師父がニューヨーク法会で説法された後、真に修める大法弟子の誰もが、法を正す最後の厳粛さ、師父が延長してくださった時間の大切さを実感しているでしょう。ですから、最後の時、私達は決して自身の修煉を軽視してはいけません。たとえ人を救い済度する重要なことをしていても、時々刻々修煉者の基準で自分を律しなければなりません。
最後に、師父の以下の法を持って同修達と励まし合いたいと思います。「あなたが修煉者でありさえすれば、いかなる環境、いかなる状況下でも、遭遇したいかなる厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事のためであっても、皆さんが思っているどれほど良いことや、どれほど神聖なことであっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を取り除き、皆さんの魔性を暴露させ、それを取り去っているのです。皆さんの向上こそが、最も重要だからです」[2]、「真にこのように向上することができるのであれば、皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下で行なうことこそ、最も良いことで、最も神聖なのです」[2]
注:
[1] 李洪志師父の著作:『洪吟』「着実に修める」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「再認識」