【明慧日本2016年10月8日】私は自分の歓喜心がとても察知しにくく、ときどき気づかないうちに自然に出てくるほど強いものだとやっとわかりました。数日前、ある派出所の警官に法輪功の真相を伝えるために電話をかけました。相手は長く話を聞いてくれたので、私は話しているうちにまた歓喜心が出て来ました。このような不純な考えが出て来ても私はまだ気づかずに話し続けました。その後相手が突然イライラして私に「受話器をこのまま置きますから、あなた1人で一晩ずっと喋り続けると良いですよ」と言われました。私は数分話してから自分から電話を切りました。
どうして相手の反応がこんなに大きく変わったのか、今冷静に思い返して考えると、やはり私には漏れがあったと思います。師父は「顕示心にさらに歓喜心が加わると、魔の心に最も利用されやすいのです」[1]と教えてくださいました。
電話で真相を伝えるとき、相手が長く聞いてくれる最も大きな原因は自分の話し方が上手だからではなく、純粋な気持ちと相手を救う願望があるからで、慈悲なる師父が加持してくださり、相手の分かっている一面が目覚めて自ら真相を聞き入れたからです。しかし、そのとき私は自分を実証し、顕示しようとし、歓喜心と顕示心を抑えようともしませんでした。他にも「電話が終わったら同修と交流しよう」というような考えも何度がありましたが、やっと今気付きました。
思い返せば、今まで街頭で真相資料を配ったり、迫害停止の署名を集めたり、或いは日常生活の中でも歓喜心に妨害されたことがありました。物事がうまくいったとき歓喜心が出てきて、私は歓喜心につられたままになり、それは自分が考えていると勘違いしてしまい、結局は様々な妨害が現れてしまいました。明慧ネットの交流文章を読んで、これも一種の自我への執着の現れで、旧宇宙の「私」という堕落した属性の現れだと分かりました。謙虚な気持ちがなく、傲慢や自惚れなども党文化の現れであり、しかも自分はそれを抑えようともしませんでした。
次に他人に指摘されたくない心について交流したいと思います。褒められたい、他人に指摘されたくない心は、直面したくないほど強かったです。ある日、同修に面と向かって指摘されました。そのとき態度は良かったのですが、帰ってからそのことがずっと脳裏から離れず、心の中で不平不満を感じました。日常生活の中でも同じです。ちょっと多く働いたり、苦労したりするのは平気ですが、指摘には耐えられません。面と向かって指摘されるはもちろんダメで、陰で言われたのを気づいた時も心の中で不平に思いました。
師父の説法を拝読して、はっと自分が間違っていると気付きました。「他人から殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さず」[2]というように、自分を修煉者と律していませんでした。大法弟子としての素晴らしさがなく、他人の不足を探し、物事に対していつも「自分」という出発点から考え、他人に傷付けられたらダメ、自分の機嫌を損なうようことを言われてもダメ、自分を傷つけられないために生じた闘争心や恨む心など、そして党文化に害毒された要素がまだ取り除かれず、いつも常人の理で物事を判断し、自分を常人と混同してしまいました。真相を伝えるとき心は穏やかですが、自分の気にそぐわないことに遭うと、すぐ常人に戻ってしまいました。頭が明晰になることができず、これらの人心を深く認識できないため、真に自分を修煉者として律することができず、真に忍を実践することができませんでした。
師父は問題にぶつかったら内に向けて探すよう、私たちに要求されておられますが、自分はいつも心の容量が足りず、外に向けて探し、他人の欠点ばかり覚えて許すことができず、他人を寛容な心で受け入れることができないのも一種の党文化の現れだと思います。
内に向けて探してみると本当にひやひやします。表面の形式上のことだけに拘り、着実に修煉していませんでした。修煉の最後の段階に来ているのに、このままの状態では本当に危険だと思いました。
師父がこのような長い間存在していた良くない人心を深く掘り下げ、取除くチャンスを私に与えて下さったことを感謝致します。これからはもっと冷静に自分の中に法に合わない部分を見つめ直し、それを取り除かなければならないと思います。このようにして初めて真に宇宙の「真・善・忍」の特性に同化することができると思います。
個人の体験ですが、法に則っていないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をよろしくお願いいたします。
注:
[1] 李洪志先生の著作:『精進要旨』「定論」
[2] 李洪志先生の著作:『シドニー法会での説法』