文/中国の大法弟子
【明慧日本2016年11月5日】私は長い間、色欲の心を取り除いていなかったため、少し前にまた昔と同じようなトラブルに遭いました。その時は汚れた思想と邪悪な生命に操られていたので、正念が全くなく、自分自身を道徳基準すらない常人と見做し、自ら堕落していきました。過ちを犯した後、精華の気を奪った邪悪な色魔はさっさと逃げて行ったので、私もようやく目が覚め、後悔の念でいっぱいでした。
あのころ、夜になると、自分が長い間病に苦しめられている同修と共に地元の墓地に向かっている夢をよく見ましたし、刑務所の中にいる夢も見ました。時には、座禅している時でも黄泉の門が見えたこともあります。そして、腰以下が痛くなっても、何かの病気だろうという考えしか浮かびませんでした。
後悔、心配、圧力、そして、悔しさが波のように次から次へと押し寄せてきて、法を正す時期がここまで来たというのに、自分の修煉は未だこのような状態では、あまりにも恥ずかしいと思いました。すべては長い間、何度も堕落しては過ちを繰り返してきた自分が悪いのです。他人のせいではないと分かってはいるものの、やはり言葉にはできない絶望と悲観を心の内に秘めていました。
一、どれほど困難でも、魔難から抜け出さなければならない
それからは、暗闇と絶望の中(当時の自分の感覚です)「今日まで歩んできたのに、このまま完全に滅ぼされていいのか? ずっとこの暗くて汚れたところにいたいのか?」と何度も自分自身に問いかけました。けれど、結局は修煉の道から離れすぎたので、自身の決意も激しく揺らいでいたのです。
それでも、暗闇の中で「決して大法の修煉を諦めない」という一念だけはずっと心の底にありました。この一念こそが自分に光をもたらし、弱いけれども、再び修煉の道に戻る勇気と正念を与えてくれたのです。以前から、後悔と自責の念は何の役にも立たず、自暴自棄になって全てを諦めることも何の意味もないということはすでに分かっていたので、少しずつ強くなっていきました。「このままではだめだ、もう後に引ける道はない、このまま潰させない!」と、自らの修煉がどれほど悪くても、自分自身は師父の弟子だと見なしました(このように思う度に強い羞恥心に襲われます)。けれど、こういう時、思想の中から直ちに「お前はもう相応しくない、図々しすぎる、厚かましいぞ」などのような念が出てくるのです。
しかしながら、師父は私に次の説法を示してくださいました。「転んだら起き上がればそれこそ最も素晴らしいのです。もう一度しっかり行なってください! ずっと理性をもって歩んできて、修煉し続け、大法弟子が行なうべきことを行なっていれば、それは素晴らしいのです。師父はあなたを認めます! 皆さんがやる気を出して、早く取り組み、しかもしっかり取り組むよう期待しています」[1]という法を見て、驚きました。これほどまでに最低で、精進しようともしない私を師父は諦めておられないどころか、励ましてくださっているのです。そして、ようやくあることを理解しました。劣等感を感じるのは邪悪の仕業であり、私に自信と正念を無くさせて羞恥と後悔により、修煉を諦めさせようとしているのです。その手に乗ってはいけないと分かってはいますが、いざ大法の中に戻ってくるとなると、極めて困難なことで、もはや邪悪や腐敗物などにぐるぐると厚く巻き付けられている気さえしました。
それでも、学法と発正念を続けましたが、汚い色欲の念が次から次へと溢れ出て、まともに勉強することもできないので、そのような時は『洪吟』と『論語』を暗唱しました。最初のころは自らの主意識を腐敗物に厚く取り巻かれていると思い、集中することもできませんし、また、直ちに迫害されて、肉体まで奪われていくような恐怖と圧力にも襲われているため、強い焦燥に掻き立てられて、学法を諦めそうになりました。しかしながら、私はそれらに耐えて、学法も発正念も途絶えることなく続けてきました。大変ですが、邪悪な念は確かに少しずつ減っていったのです。
ある日の朝、『洪吟(三)』を7編目まで暗唱した時、突然、サッと分厚い邪悪な腐敗物が一気に消えたのを感じました。ほとんどが下半身から出て行ったのが分かりました。素早く、下半身の痛みがなくなり、それに伴っていた恐怖や、焦燥、圧力も全てが消えて、身体だけでなく、心までもが落ち着いて穏やかになりました。外界からの何ものにも妨害されないようなエネルギーが戻ってきたのが分かり、心の内からあることを感じました。「自分を迫害してきた邪悪は解体された」
大法の偉大なパワーに圧倒され、その瞬間、ある理を理解しました。正念は法から生じるもので、師父の大法が自分に正念を与えたのです。自らをどれほど偉いと思っている生命でも、法から離れれば、それはすぐさま無力になり、正念もなくなるのです。大法から離れた自分が「強い正念を持っている」と思うのは、まさに自分自身を騙していたにすぎません。大法から離れた修煉者は邪悪に弄ばされ、いじめられ、騙されるほかありません。魔難が訪れる以前に、自分の能力が強く、特別で、大きな役目を背負っているなどと考えていた自分はなんと身の程知らずで、愚かな人間だったでしょうか。あれは自らの心より生じた魔でしかなく、自分と大法を少しずつ隔離していたのです。
また、気が楽になった瞬間、長い間『洪吟(三)』を暗唱することに対しての抵抗も完全に消えたのが分かりました。師父の大法を勉強している時、抵抗を感じることがあれば、それはきっと正すべきか、あるいは除去すべき邪悪な生命の仕業なのです。
今回の事は確かに痛恨な教訓でしたが、それでも、あることに気づくことができました。魔難の中で、例えどれほど大変でも、師父と大法に対する堅い信念を無くしてはならず、どれほど困難でも、修煉し続けていく正念を無くしてはいけないのです。必ず戻ってくるという決心を持ち、自暴自棄になって全てを諦めるようなことは絶対にしてはいけません。一時期は旧勢力の按排を否定できずに、難関を乗り越えられなかったとしても、師父と大法に対する信念だけは揺らいではいけません。なぜなら、このような魔難で、このような時に、我々の根本的な信念も試されているのではないでしょうか。
状態が良い時は師を信じ、法を信じることは容易にできますが、このような情況下で、できるでしょうか。できるとしても一体どこまで信じ切れるのでしょうか。
師父は次のように説かれました。「弟子の正念足りれば、師は回天の力有り」[2]なので、表面上、一時期は全くできていなくても、魔難が長く続いても、心の中から師父と大法を信じ、大法の力を信じ、例えどれほどの妨害や衝撃を受けても、常人の方法で逃げ道を見つけ出そうとせず、自らを師父の弟子と見做して、常人の観念を解体する正念を持ち、法を心に刻み込むように勉強し、師父に言われた三つのことをしっかり行い、真面目に修煉していけば、本当にこれらの事ができれば、師父は我々のために何でもできるのです。魔難を乗り越えるのも一瞬のうちかもしれません。
二、難関の原因を探す
難関を乗り越えた後、ある日、ふと考えました。他の同修はもしかすると修煉する前からすでにこの色欲の心を取り除いていたのかもしれませんし、あるいは違う時期に取り除いたかもしれませんが、どうして私はこれほどまでに困難を感じるのでしょうか。私はなぜその時に正念を持てなかったのでしょうか。なぜ未だにこのような最低な過ちを続けてきたのでしょうか。私は内心から自分自身に問いかけました。「これは一体なぜですか」
するとこの時、ふと以前に同修を蔑むようなことが何度かあったことが頭の中で蘇りました。一つは、ある同修は、以前は精進していましたが、今はほとんど修煉していないと別の同修から聞いた当時は、その同修に対して何の同情も残念な感情もなく、まして正念で同修を加持するような考えもありませんでした。それどころか、どこか相手の不幸を喜ぶような念まであったのです。その同修とは昔トラブルを起こしたことがあり、軽蔑されたことがあったのです。そして、もう一つは、地元の同修が経済的に誤った道に進み、結局騙さてお金を失ったことでした。これを知って私は心から相手を咎めました。「今更このようなことをするなんて、最低だ。頭がどうにかしてる」。もしかすれば、この二つの事が何か関係していたのではないでしょうか。
この2日間、私は色欲の魔難に捕らわれていたころの自分を振り返ってみました。あのころは、間違っていると分かっても、何度師父に教えられても、私は自分自身を止めようとしませんでした。頭が冴えている時でさえ、あのような目的に達しなければ、決してあきらめないという血迷った言動には驚愕します。あのころ持ったすべての考えを思い出してみたところ、このような念があることに気づきました。自分自身が打ちのめされることを恐れずに何度でも立ち直ってみせるという「強い正念」を持っていると勘違いしていたのです。色欲の心が湧き上がってきた時、どれほど頑張っても乗り越えられないのだから、いっその事自分を楽にしよう。「失敗して後悔すれば、きっと目が覚めるはずなので、その時にまた努力すればいい」というような考えの下で、私の主意識は人心を律しようとしなくなり、肉体を放り投げて色魔の好き勝手にさせ、邪悪な欲を満たしていたのです。
このことを通じて、私はあることを理解しました。慈悲と寛大な心を持って同修と接することができなければ、きっと邪悪に傲慢で、冷酷で、強い利己心という隙を突かれて、迫害されるでしょう。傲慢な心理は、まさに自分の事を偉いと思い込み、自らの心より魔が生じている表れではないでしょうか。傲慢な態度を取っている時、その人はすでに魔難の中にいるのです。邪悪は色欲や、他のまだ取り除いていない執着心のような弱みを握って、その人に痛い思いをさせて「自分はなんと愚かだろう、最低だ」と思わせ、これを機に人を滅ぼすのです。
それなのに、私はずっとこのような錯覚をしていました。「毎回、過ちを犯した後、目が覚めたので、やるべきことは何一つ遅れていない」という思い込みです。それから、この困惑を自分を良く理解している同修に話しました(自分がしてきた全ての過ちを同修たちに暴き出しました。公表する前は死ぬほど難しく、とても言えないと思っていましたが、いざ決心して暴露した後、心が非常に軽やかになり、大きな汚物をやっと体から下ろしたような気がしました)。同修の話によれば、これはおそらく、色魔が私の精華の気を吸い取っているそうです。満足したあと、しばらく自分から離れたので、やっと目が覚めましたが、それが又私を必要とする時、再びやってきます。私がそれを認めたから、長い間形成された観念の中で、その欲望と気持ちよさを自らの需要として認識しているから、それが自分を操ることができ、絶えず過ちを犯していました。私はそれを真に心の内から取り除いておらず、また、それがもたらした苦痛の中で法に基づいて克服せず、それどころか、却って常人の方法でその苦痛を和らげようとしていたのです。これを小さなことだと思い、普段でも、様々な情や色欲などが現れた時、直ちに発正念をして除去していないため、時間が経つにつれて、それがどんどん大きくなり、漏れもますます大きくなっていたのです。また、自分を騙している念(その念でさえ自分自身と思っていた)と自らの心より生じた魔によって理性と正念を隔離され、さらには、同修に対する偏見などで自身の修煉に大きな障害をもたらしたために、ここ数年のうち、何度も色魔に妨害されて魔難に閉じ込められてしまったのです。
もちろん、魔難に苦しめられている時や乗り越えた後でも三つのことをしっかりこなしており、色欲の背後に隠されている様々な人心を見つけることができたので、師父も加持してくださり、また頑張れるという正念を出すことができました。しかしながら、色欲自体を重視しておらず、何度も見逃したのです。ずっとそれを法を実証する妨害として認識し、無意識に邪悪を認めてしまっていたのです。自分がやっていることが大事であると思っているので、邪悪による色魔の妨害も大きくなるのだと、同修に言われました。当然のことながら、法を実証する中で邪悪に妨害されますが、その念がなければ、その問題においては何ものにも妨害されないのです。こういった執着がなければ、例え難に遭っても、自分のようにこれほど大きな過ちを犯すことはないので、我々のいかなる人心も見逃してはならない、とも言われました。師父はこのように説かれました。「あなたのどの執着も、あなたの修煉を台無しにしてしまいます。どの執着もあなたの体に異常を来たし、大法に対する確固たる信念を揺るがしてしまいます」[3]。ですので、例え執着心が顔を出してもそのまま見逃すわけにはいかないのです。
同修の事を聞き、私は深く感動して、ようやく理解しました。この問題において私はずっと理解できていませんでした。以前は、自分はすべてを明白に理解していると勘違いしており、思想がすぐに色欲につられて邪念ばかりが頭の中でうろついていました。はっきりと認識していない上、この問題と直面することすら怖かったのです。
同修との交流を通じて「自分が特別であると思い込む心理」を見つけることができました。長年、色魔に妨害されて、乗り越えられなかったので、ついつい逃げてしまいました。この方面においての魔難があまりにも大きすぎたので、もしかすると、このような魔難の中で何度打たれても立ち直るという精神と強さを鍛えられているのではないか。これがのちに残っていく私の修煉の道ではないかと逃げていました。長い間ずっとこのように思っていましたが、「この念こそが旧勢力が加えたものです。そのような按排は旧勢力にしかできまぜん。冷静になってください。乗り越えられなかった度に一体どれほどの損失をもたらすのか、あなたの世界の衆生がそれほど滅ぼされるのか、どれほどの業力を作ってしまうのか、また、それにより、修煉がどれほど困難になってくるのか、これらの事を真剣に考えたことはありますか。このような道を師父が按排なさるはずがありません。あなたはただこの執着心を取り除くことが難しく、しっかり修めていないことに言い訳をしているにすぎません。すべての執着心を一つずつしっかりと修めていくのが修煉者です。特別な人などいません。あなたにこの心理があるからこそ、いつも自分を『試験を課される側』として見做し、『迫害されている』中であなた自身の『強さ』を現しているのです。これでは旧勢力の按排を認めていることになるので、いつも乗り越えられない原因はここにあるのかもしれませんよ」という同修の言葉にはっとさせられました。
よく考えてみれば、この問題において自分は本当に愚かです。転んでも立ち直れる自分自身を「強い」と思い込んでいるせいで何度もさせられるまま「転ばされて」いました。
今回の魔難がやってくる前、よくスマートフォンで常人の新聞を読んだり、ネットに上がって様々なニュースを見たりしているのを思い出しました。そしてある日、ウェブサイトである興味深いことを見かけたので「百度」でそれについて色々と調べました。それから何日かたった後に「大胆」になり、常人の汚らしい内容のものまで見る「度胸」が出たのです。常人のウェブサイトには極めてよくない魔性のものがあるに違いなく、また、自分自身で自らを汚していくのを操っているのが色魔なのでしょう。それなのに、当時の私は「これらは普通の新聞だ。内容を知っていても何の問題もない」と自分自身に言い訳をしていました。そして、時間が経つにつれて頭の中が少しずつ腐敗物に包み込まれていき、最後には正念を失い、まだ取り除いていない色欲と色魔に肉体まで操られてしまったのです。色欲において過ちを犯す要因がこれほどあるとは思いもしませんでした。それは偶然などではありません。今の今までに様々な要因が積み重なった結果なのです。
三、真に実行できてこそ実修である
今回の教訓により、執着を取り除かないその結果と修煉の厳粛性を重く感じました。本当に、心の底から色欲と常人の観念を取り除こうと思います。
まずは、暇な時にネットに上がりたいという念を抑制し、正念で取り除くのです。教訓があまりにも重かったので、これを小さなことであると思って油断することは決して許されません。
ここ数日の間、学法時間を増やした他にも、発正念の時間も増やしました。もう今までのような中途半端な状態ではいけませんし、平然とした顔をして悪行をするような悪い常人になってはいけません。何度も汚いものを注ぎ込まれたので、たくさん発正念をするほかありません。それからは、四つの時間帯のほかにも、歩くとき、自転車を漕いでいる時、仕事で暇なときなど、利用できる時間を全て色欲心、色欲の観念、そして、色魔を中心に発正念することに使いました。情、色、欲においてほんの少しでも気を抜くとすぐにそれらのものに隙を突かれるので、常に正念を持って対応しなければなりません。それらの邪念は、区別すればいいというものではないのです。常に、休まずに、例え頭の中に色欲のものがなくても正念で、心と頭をきれいにしなければならないのです。一時的に姿を見せなくても、邪悪が消えたというわけではないのですから。
思い返せば、常人の時からこの方面において大きな業力を造っていたのです。悪い物質が多いので、他人よりも多くの苦を嘗めなければなりません。足の遅いものは他人と比べずに先に走らなければなりません。そして、三日坊主にならないよう、これからも堅い信念を持って継続して精進していかなければならないのです。ここの所、悪い思想や色欲の念が湧き上がる度に正念を発する習慣が身についたため、段々と集中できるようになり、長時間の発正念の効果もより明白に現れてきました。歩いている時や自転車を漕いでいる時、頭の中で発正念のセリフを唱えるのも効果があります。
最近では、自らの心より生じる魔や傲慢で、冷酷、他人を見下すような悪い物質も取り除き、また、他人に目をつけてばかりいないでもっと自身を見つめ、自分を修めていき、徹底的に旧勢力の破壊と按排を消すよう発正念をしています。
師父はこのように説かれました。「実は、自分自身にある正しくないすべての要素も含めて、すべて大法と大法弟子の正念と一致していないものはいずれも、旧勢力の関与によってもたらされたことです」[4]という説法を読んで、師父は我々に旧勢力の按排を明白に分別し、徹底的に否定することを教えておられると理解しました。
思えば、色魔に妨害され、操られて犯した様々な言動は、旧勢力や多くの古い生命から見れば、もはや消滅するよりほかの道はなく、これ以上修煉する可能性も機会もないのかもしれません。
しかしながら、偉大な師は限りない慈悲で、私の罪を代わりに背負ってくださり、再び奈落の底から救い上げてくださいました。転んだ私に手を貸し、正念を与えてくださったのです。別空間の景色は見えませんが、師父の恩を深く感じ、師父への感謝の気持ちはとても言葉に表すことができません。
今まで歩んできた中で、多くの風雨を経験してきましたし、大きな損失をもたらしました。けれども、まだ多くの衆生が大法弟子に救われるのを待ちわびており、大法弟子である我々は衆生の唯一の希望なのです。師父は、例えどれほど大きな困難や妨害に遭っても使命を果たすことを望んでおられるので、我々に何度もの機会を与えてくださったのです。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「師徒の恩」
[3] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』
[4] 李洪志師父の経文:『波紋を呼んだ副元神に関する文章について』