文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年2月13日】この間、私が得た最大な収穫は法を暗唱することを続けられたことです。その中で得た体験や悟りを同修のみなさんと分かち合いたいと思います。
一、学法の状態を変え、入念に法を暗唱する
私は幼いころから感情が豊かで、読書や映画、テレビを見ることが好きでした。それにより、修煉をはじめた時、思想業力が極めて強かったのです。本や、テレビの中にあった、名利や、色欲などが私の頭の中に湧き出て、頭の中が鎮まることがなく、10年以上修煉していても、入念に学法することが少なく、『轉法輪』を一講読んでも、少ししか覚えていませんでした。学法している時、思想業力が頭の中に浮かんできて、修煉に専念することができず、学法が十分にできず、修煉状態もよくありませんでした。たまに自分が大法の中で適当にしていて、学法をしっかりすることができず、真に自分を修めることが非常に難しいと感じていました。
この十数年間の修煉を振り返ってみると、学法の時間はほとんど形式に留まり、心に入っていませんでした。心を静めて『轉法輪』を一回も読み通したことがなく、本当に恥ずかしく思います。去年の年初に、もうこれ以上このような状態を続けてはいけないと思い、変えることを決心しました。こんなに重い思想業力があるのでは、どうしたら、入念に学法することができるようになるかを真剣に考えました。そこで思ったのが法を暗唱することでした。『轉法輪』の暗唱から始めました。以前にも本を暗唱したことがありますが、意志が弱く、何かを求める心をもって暗唱し、効果があまりよくなく、続けられませんでした。そこで前回の教訓を真面目に纏めた上、自分に困難を恐れず、求める心も放下し、ひたすら法の暗唱を続けるように言い聞かせました。
思想業力があまりにも強かったため、法を暗唱するときに集中力が切れることがありました。そのため、法を暗唱するときに一文字一文字をはっきりと目の前に現れるようにし、本当に入念に学び、自分自身が学ぶようにしました。この状態に達した度に、自分の悪い思想が除去されていくのを感じ、頭がすっきりし、ときには法の内涵がすぐ浮かんできました。
法を暗唱してから、学法するときには些細な正しくない念を少しでも持っていてはいけないと悟りました。一度いくら繰り返して覚えようとしても覚えられない部分がありました。原因を探ってみると、自分の心の奥に師父の法に対する対抗がありました。つまり、信じていませんでした。この部分を覚えるときに、師父の話されたことに対して審査する態度を持っていて、人間が生まれた後に形成された観念や実証科学の観点から、師父が話されたことを判断しようとしていました。なんでこんなことが?! この問題に気付いたとき、自分もビックリしました。そこでなぜ以前にも学法をしたのに、自分があまり変わらなかったことがわかりました。自分の心の姿勢が間違っていました。自分を法に照らして、正すのではなく、後天的に形成された観念で法を量っていました。自分を法よりも高い位置に置き、本当に師父の法に対して本当に失礼でした。ですから、法の真意が私に現れるわけがありませんでした。自分の心の姿勢を正しく直したとき、それらの観念を除去したときに、その部分の法がとても暗唱しやすくなりました。
法を暗唱する中で徐々に自分の怠惰や困難を恐れる心、求める心、そして焦りなどの執着を克服することができました。以前は『轉法輪』がとても長く感じ、いつすべてを暗唱するかわからず、怠惰や困難を恐れる心や焦る一面が現れ、たまには暗唱するページ数と進み具合だけを考え、適当に覚えていました。今回法を暗唱するのは、より良く学法し法に対する理解を深め、大法に同化し昇華するためであると自分を戒めました。
去年の3月から『煉功するその人が功を得る』 『口を修める』 『佛性』 『法の中に溶け込む』などの比較的短い経文を覚え、また3カ月の時間をかけ『大紀元会議での説法』を1回覚え、そして『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』を覚えました。今ではこの状態に慣れて、本を見ると暗唱したくなります。焦りや困難を恐れる心、そして求める心などの執着も知らないうちに薄まっていきました。今後、法を暗唱することは諦めずに続けていきます!
法を暗唱することにより思惟がはっきりしてきました。以前は頭がはっきりせず、うまく暗唱できない時、その状態が法を暗唱する質を悪くしていると思い暗唱を諦めていました。しかし、今考えるとそれはまさに邪悪との闘いでした。覚えづらい時こそ、邪魔している邪悪を取り除くまで法を暗唱し続けるべきです。主意識が目覚めると、本当の自分が思想や行為をコントロールできます。昔よく、院長が何か言えば、良し悪しも考えずすぐに従いました。しかし、法を暗唱し交流文章を読むことにより、現在この状態から抜け出しています。心の中から自分こそ真の主役で、大法弟子は何をやるにしても法をもって判断すべきであり、他の要素に左右されるべきではなく自分が主導すべきだと気付きました。
この利益や争い、そして誘惑が満ちている世の中で大法弟子は冷静さを保ち、流されず純潔を守って悪に染まらないようにするには、すべて法による正念と勇気に頼ります。去年の夏、私が診察した患者がまた自分の母親と祖父と一緒に診察に来ました。同時に2人の患者を診察できないため、祖父の方は院長に依頼しました。患者が帰るとき、私は院長が患者の祖父から1千元を多く取ろうとしていることに気付きました。その時はまだすべての金額を受け取っていませんでした。帰宅後どうしたらいいのか考えました。院長がそうしようと思えば、自分は止められないし、彼らの間にどのような因縁関係があるのかもわかりません。しかし、自分は法に符合しないことはやってはいけないと一念を発しました。その後、間接的に院長に患者から費用を多く受け取るのはよくないと伝えました。そうしたら、最後に診察をすべて終えた時、院長はその1千元を受け取りませんでした。
二、根本的な執着を知り、内に向けて探し自分を着実に修める
私の仕事は診察することです。医者の責任の重さから、患者や自分に取り返しの付かない損失を起こさないように、いつも焦りや不安な状態で仕事をしていました。この診療所で2年間働きましたが、日々忙しく、大法を実証する仕事ができませんでした。そして、院長は私の仕事ぶりに非常に不満を覚えており、自分はまるで変な流れに巻き込まれたようで、出口が見つかりませんでした。
昨年の上半期、明慧ネットで師父や師父の法を信じることをテーマとした交流文章が多く発表されました。それらの文章は私に大きな影響を与え、私にこれらの問題があることを気づかせてくれました。長い間ぼんやりとした修煉状態に陥り、修煉に心を込めてなく大法の中で適当にやっていました。この2年間、私は多くの時間や精力を仕事に使い潜在意識の中には、技術をしっかり学ばなければ金儲けができず、安定した仕事に就けないと考えていました。しかし、いくら技術を高めても効果は薄く、代わりに絶えないミスを犯し院長に軽視されていました。それに、自分の考えがネガティブで何もかも悪い方向に考えていたので自信がなく、毎日落ち込んだ生活を送っていました。内心では苦しく疲れ果てていて、人間の一面が苦しく威張っていただけでした。
『煉功するその人が功を得る』を暗唱するとき、何かが分かってきたようでした。ある同修が言ったように、自分は法の中で修めていたのではなく法の中で求めていました。何を求めていたのでしょうか? 自分の心を探ると、人間社会で安定した生活を送ることを求めていました。師父は「執着を持って法を学ぶことは真に修めることではありません。しかし、修煉の中で自らの根本的な執着に徐々に気づき、それを取り除くことによって修煉者としての基準に達することができます。それでは、根本的な執着とは何でしょうか? 人間は世間にあって多くの観念を形成し、観念に振りまわされ、あこがれのものを追求しています」[1]と説かれました。
私は大法が素晴らしいということは知っていましたが、人の執着を持って仕事の順調さや家庭の幸せ、そして人間社会での安らぎの生活を法の中で求めていました。同時に人間の観念、党文化や実証科学および進化論、そして無神論に影響されて信仰や神の奇跡など目に見えないものに対して疑っていました。つまり、100%師父や法を信じていませんでした。以前問題にぶつかると、自分がきちんとやれば、師父が解決してくださるものと考えていました。その出発点はやはり問題を解決するためでした。学法や同修の書いた交流文章を読むことにより、修煉する人は困難に立ちむかい、法の基準に照らして行い、法に符合してないところを探し出して、大法にしたがって正すべきと段々わかるようになりました。
悟ってから実行に移すまでにまだ1つの過程があり、それがほかでもなく着実に修める過程です。以前は本を多く読み学法を多くすればいいと思っており、内に向けて探すことを忘れていました。内に向けて探すことは、修煉者にとって、着実に修める第1歩です。ある時期、私は院長に対して恨み事が非常に大きく、この空間に現れるとその間彼女は私に会うとすぐ怒り、間違いを起こしていなくても彼女は機嫌が悪いのです。長い間、院長に対する不満や恨みで非常に苦しんでいました。自分がこの難を乗り越え難いと感じていました。ある日、同修のところから帰宅した後、家族の同修と交流すると、突然自分の心の深いところに冷たくて、固いしこりがあることに気付きました。そのものの本質はまさに自己中心的で悪いものでした。一瞬にしてこのすべては自分が悪いことに起因していると気付きました。自分の心の中に、このような自己中心的な心や悪い物質があるので、恨みが生じました。この冷たくて堅いしこりこそ、まさになくすべき物質ではありませんか。私は何が原因で、自分が院長に対してこれほど強烈な不満と恨みをもっているのか、内に向けて探しました。それは名に対する追求でした。今まで院長はずっともう1人の同僚が特に好きで、常に彼女を褒め称えていました。私が支払ったすべての努力に対して、院長は少しの肯定や褒めもありませんでした。これに対して私は深い不満と恨みを持つようになりました。少しでも認めてくれ褒めてくれたなら心のバランスを取れたはずです。私はようやくわかってきました。人間社会での虚名を追求し、他人の肯定と褒め称えを求めると同時に、自分の支払った代価が報われていなかったことにより、恨みが生じていました。私は他人が自分を褒めるときのあの快感を欲しがり、求めていました。
私はただ茫漠としてつかみどころがないあの快感を追求していました。得られなかったからといって恨みと不平が生まれました。どんなに悲しいことでしょう。師父はこう説かれました。「ですから、以前話したことがありますが、大法弟子は修煉者として、問題を見る時、人間と逆の角度から見るべきです。不愉快なことに遭うと、機嫌が斜めになる人がいますが、それならあなたはほかでもなく、人間ではありませんか? 何の違いがあるのでしょうか? 不愉快なことに遭うときはちょうど、自らを修めるときであり、心を修めるときです」[2]。私は自分がこの問題において、常人と同レベルにいて、すでに落ちてしまったとわかりました。常人の思惟でこの魔難を考えていたので、本当に間違っていました。1人の修煉者として、私は師父がこのような自己中心的な考えや悪い心を取り除く機会を按排してくださったことに感謝します。そして、院長を恨むのではなく、感謝すべきであることを悟りました。
こうして、すべては師父が私の執着心を取り除くために作り出したものだと感じました。自分の心が静まったあと、周りのすべてもウソのように静まり返りました。その時、私はまるで夢から目覚めたように、問題を見る角度が修煉者の状態に戻り、平和で、冷静で、透き通った感覚を覚えました。この感覚は非常に幸せなものでした。
去年5月に師父は新しい『論語』を発表されました。新しい『論語』を暗唱する中、大法とは何か、宇宙と生命の誕生と由来、何が修煉なのか、人間はいかに修煉すれば神になれるのか、人類の科学の浅はかさなどの問題に対して、以前よりさらにはっきりとした、深い認識をもつようになりました。私は一瞬にして修煉の根本とは何か、自分の根本的な執着は何かがわかるようになりました。
去年の7月ごろ、ある患者を担当しましたが、手術後の状態が思わしくなく、非常に機嫌を悪くしており言動が激しく、直接院長を探して訴えてきました。このことによる影響は悪く、患者が帰った後私はずっと心配していました。夜になると麻酔が消えて、非常に痛くなるのではないか、もし痛すぎて患者が明日また来たら、もっと事が大きくなり影響も出てくるに違いありません。しかし、院長にもこれ以上の解決方法が見い出せず、すべては患者の帰宅後の反応を待つしかありませんでした。
その日の午後、私はずっとこの事で悩んでいました。明日になって結果がどうなるかわからず、心の中は不安でいっぱいでした。家に帰るまでずっと不安な状態でしたが、帰宅後、家族の同修にこのことを話すと、同修が師父と法を信じるべきだと励ましてくれました。そこでようやく法を思い出し、邪魔されてはいけないと気付き、いつも通りに学法すべきだと思いました。学法することは大法弟子にとって一番のことで、私はすべての心配をなくし静まった心で学法すべきです。しかし、本を手に持って法を読む時、内心はまだ静まらず明日のことで不安でした。そこで、まだ何を心配しているのか自分に問いかけました。心を静めて心配の根元を探ってみたら、物事の最終結果が見えていないから、未来のことを心配していました。
さらに深く探してみると、それは師父と法を信じるか否かの問題でした。私は自分を完全に師父と法に任せていませんでした。いつも人間の観念と実証科学の経験や認識を持って、何が起こるのかを推測していました。言い換えれば、自分の潜在意識で実証科学の中で得た経験や人間の認識を信じていました。法の威力と神の奇跡については、無神論や進化論、実証科学の観念の影響を受けて、潜在意識の中で常に疑心を持っていました。どうして疑っていたのでしょうか。それは私に見えないからです! まるで師父のおっしゃったように「ですから、一部の人には固執した観念が生まれました。彼は目に見えたものこそ実在的なもので、彼に見えないものは信じません」[3]でした。私はやっと根本的な執着を見つけました。それは他でもなく、長い間、骨の髄まで形成され、見えないものは信じないことでした。これはずっと私が法に完全に同化することを阻んでいて、多くのことにおいてこの観念に阻まれていました。
やっと自分が前進できないように阻んでいるものが何かをはっきり見分けることができました。今回はもうそれのいいなりにならないことを決心しました。自分にこの「信じる」を修めよう、未来の結果が見えなくても師父を信じ、法を信じる、私は自分を完全に師父に預けるようにと言い聞かせました。このようにしようと決心した時、まるで一重の厚い壁がハンマーで強く打たれ、ひびが入った感じがしました。実証科学により形成された頑固な観念を破るために、私は第1歩を踏み出しました。
私は師父のこの法を暗唱しました。「人と接触していれば、人を救っているのです。広告営業も含まれています。人間がどの立場を取るのか、救われるかどうかはいずれも、大法弟子が常人と接触したときに決められます。事情を重く見ないでください。困難を大きく見れば見るほど、問題が難しくなり、相は心から生じるのですから、問題はますます厄介になります。相は心から生じるという言葉にこの意味もあります。なぜなら、あなたはそのことを重く見ており、自分を見下したからです。それがたいしたことではないと思い、人を救うという大きなことなので、行なうべきことをし、心を落ち着かせ、気に障ること、気に入らないことにぶつかったり、聞いたりしても気にせず、正々堂々と行なうべきことを行なえば良いのです。邪なものに妨害されず、それに動かされなければ、良くない要素は自分のところから生じることはなく、邪悪が微々たるものになり、皆さんは大きくなり、正念が強くなるのです。本当にいつもこの情況です」[4]。
私はあれらのマイナスな思惟と一切の私心と雑念の邪魔を排除し、発正念して、この患者との因縁関係を善解しました。そうすることにより、師父が私に最高の結果をくださると信じました!
翌日、患者の手術後の痛みの状態は、なんと緩和されていました。常理では麻酔が消えると痛みが長い間持続します。しかもこの患者は薬を貰う時、態度が一変しました。怒らないばかりか、昨日のよくない態度について謝り、騒ぎはこうして静まりました。このすべては師父からの賜物であると知っています。私は師父を信じ、大法を信じてから、窮した時に道が開けた感覚をしみじみと体験しました。
三、環境の変化
昨年、学法の状態を変えてから、私は以前、修煉の中に存在していた根本的な執着について、少しずつ認識できるようになりました。私は過去2年間の修煉について考えてみました。常に人間の執着をもって法の中で求め、その結果、大きな魔難に遭っても求めているものは、何も手に入れることができませんでした。現在、私は少しずつ冷静になり、修煉とは法をもって物事を量る基準とし、自分を正し、人間の観念と認識などを放下し求めないことです。
以前、私は常に表面的なもの、外在的なものを重んじていました。現在、私は物事の進む方向を主導するのは修煉者の正念であり、法の中で修めだした純粋な状態だけが、外在的な環境に根本的な改変をもたらすと認識できました。
一度隣り近所の人が1人診察を受けにきました。私はずっと彼女に真相を伝えるかどうか迷っていました。近所の人に真相を伝えると、安全の問題があるのではないかと心配していました。このお婆さんに対する治療がそろそろ終わるころに、彼女と世間話をしました。私たちは非常に自然に中国共産党高層幹部の腐敗、天安門焼身自殺などの偽りのニュースや大法弟子が生きたまま臓器狩りをされていることについて話しました。当時、私はあまり多く考えず求める心とマイナスな思惟もなく、ただ非常に自然な状態で彼女と交流するだけでした。彼女は非常に真面目に聞いてくれ、すぐに三退しました。
以前、私のマイナスな思惟はひどいもので、自信がありませんでした。同修の体験文章を読んでから、根本的に言えばこれは師父を信じ、法を信じる問題であると認識できました。この問題をはっきりさせないと、私達が法を正す時期の修煉に対する理解を阻み、世の人々に大法のすばらしさを現すことを阻みます。私はこの診療所で2年ちょっと働き、多くの患者を治療しました。しかし、私を覚えてくれ認めてくれる患者は限られていました。私が世の人々に大法の素晴らしさを現すべきだと認識できた時、働いている診療所に訪れる患者数が、以前より明らかに増え、しかも私に診てもらおうと再び訪れる患者が、以前より多くなりました。診療所の人員の配備とその他の方面も少しずつ改善されるようになりました。師父は「相は心から生じる」[4]と説かれました。私が正しく悟った時、環境は自ずと変わりました。
まだこの診療所に来る前、師父に私がこの業界で最も性能の高い診療所で、技術を学べるように按排してくださるようにお願いしました。当時私は、大法弟子は業界の中で最もすばらしいところで働くべきだと思っていました。その後、師父は私にこの診療所に来るように按排してくださいました。2年間の努力を経て、私は技術的にある程度突破しましたが、診療所のレベルと環境は終始、私の望む希望とはほど遠いものでした。最も私を困らせていたのは自分の独立した部屋がないことでした。これは患者に真相を伝えることに大きく影響していました。私はフルタイムの勤務でしたので、普段真相を伝える時間がありません。また、休憩時間も多くありませんでした。診療所は私が真相を伝えるのに最も適した場所と思っていましたが、残念なことにこれほど長い間、私はこの方面でよく修めておらず、もしこの方面で改善と突破がなければ、将来修煉する中、最大な欠陥と遺憾になるのではないかと思いました。
私が自分を少しずつ正していくにつれ、最も私を煩わせていたことを師父は解決してくださいました。昨年6月オーナは診療所を新たに改築することをきめ、診療所をレベルアップすることにしました。今回の改築で、独立したVIP室を設け、医者は自分の独立した部屋で患者と交流できるようになります。改築がまだ終わっていない8月に、オーナは私に一番よい2つのVIP室の中の1室を使用させると言ってくれました。そうなると私は診察室とは別に独立した部屋で、患者に真相を伝えることができ、それは私の願いでもあり本当に嬉しいことです!
この間を振り返って見ると、時間が本当に速く進んでいると感じました。よく出来ているところもあれば、多くの方面でまだ大きな不足もあります。私がやり遂げたことは少ないのですが、師父は私に多くのことを悟らせてくださいました。師父は本当にあまりにも慈悲深いのです! 以前、自分の修煉と生活や仕事環境において、多くの抑圧を感じていましたが、現在、師父が苦心して敷いてくださった道を歩み出し、無限な感激を覚え、自分の未来は希望で満ちていると感じています。これから私は師父が切り開いてくださったこの修煉環境を大切にし、必ずしっかりと真相を伝え、三退を促し、人々を救うお手伝いをしっかりと行っていきます! 師父、ご安心ください!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「圓満成就に向かって」
[2] 李洪志師父の著作:『各地での説法十一』「大法弟子は必ず法を勉強しなければならない」
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の著作:『各地での説法十』「大紀元会議での説法」