文/中国の大法弟子の家族
【明慧日本2017年3月5日】1999年に中国共産党が法輪大法(法輪功)を迫害して以来、すでに17年が経過しました。法輪大法の弟子の家族たちも、この劫難を耐え忍び、ともに歩んできました。この場をお借りて自分のこれまでの経歴を述べてみたいと思います。
私の妻は法輪大法の弟子です。迫害の中で、妻は不当に拘留され、労働教養所で働かされたこともあります。私達家族も全員この劫難を避けるため、他の地方に逃れ1年ほど路頭に迷ったことがあります。妻は迫害の首謀者の江沢民を告訴したことで、警官に呼び出されたことが度々あります。今になって振り返ってみれば、大したことではなかったように思いますが、当時は大変難しく感じていました。
2人が愛おしげに手をつなぐと、労働教養所の警官が吹き出し大笑いした
妻が労働教養を命じられた年、私は弁護士を訪ねてこの案件を依頼しましたが、断られました。私は食べ物と服を買っては、刑務所にいる妻に会いに行きました。警官は「月に一度の面会しか許さない。服は渡すが、食物は駄目だ」と言われました。
1週間後、私は再び刑務所を訪ねました。ガラス越しに久しぶりに会えた妻に、真っ先に「体調はどうか? 中で誰かに暴力を振るわれていないか。これから北京に行って弁護士を探すので、事情を簡単に説明してくれないか」と言うと、彼女の監視に当たる労働教養の警官はぎょっとした表情を見せて「面会は10分だ」と言いました。私は時間を切り詰めて「お金は要るのか、服は足りるのか? 両親と一緒に住み始めた。家に私がいるから安心してくれ。毎月ここに会いに来るから、困ったことがあればいつでも私に言ってくれ……」と言うと、妻は何も答えず、ただ苦笑していました。
帰りに登録室に寄ったとき、私はデスクの後に半開きの窓があることに気付き、そこから妻が服を貰うのを待っている姿が見えました。警官に「だめ、だめ」と注意されましたが、私はデスクの後ろに回って窓を開けて手を伸ばし 「早くこっちに来て、手を握ろう」と妻に言いました。妻の傍にいた刑務所の警官は「お前もここに入りたいのか!」と厳しい口調で言いました。「もちろん飛んで入りたいが、翼がありません」と言い返しました。妻はぼろぼろの手袋を取って手を伸ばしてきました。2人が手をつなぐと、刑務所の警官たちは吹き出して大笑いして 「安心しろ。彼女の面倒はみる、いじめたりはしない」と言いました。おかげで、その後、警官らは妻をいじめることもなく、気を配ってくれました。
後に妻から聞きましたが、私たちのその時の行動が刑務所の警官の間で広まり、事あるごとに、陰で大法弟子の家族を高く評価していました。ある警官は「もし、生涯においてこのような男に嫁ぐことができれば、たとえ死んでも値打ちがある」と言ったそうです。
「お前はどこからこんなに多くの人を連れてきたのか」と警官は驚いた
弁護士に断られても私は諦めませんでした。ネットで法律の知識を学び、行政再議の道を試みることにしました。毎日、数人の大法弟子に付き添われて、公安局、公安局の投書・陳情所、公安支局、派出所を訪ねました。ある時、公安局を訪ね、公安局の門前に300人以上の大法弟子が応援に駆けつけてくれているのを見ました。警官が私の案件を受け付ける時に、周囲の大法弟子は皆私を囲むと、大通りの向かい側の人々までも、この情景を見て皆がこっちに走って来ました。
一瞬にして、その町全体が大勢の人で埋め尽くされました。それを見ていた警官はびっくりして、少しどもりながら「どこからこんなに多くの人を連れて来たのか? 陳情は最多でも5人だ」と言いました。彼がこの話を言い終えると、道路の向かい側にいた大法弟子たちもこちらにやって来て、私の周囲は大法弟子でいっぱいになり、誰も萎縮せずに私の傍に立ち、親指を立ててくれる人もいました。その場はあまりにも壮観すぎて、その勢いは止まりませんでした。
その瞬間、私のすべての辛い思いや仕方がないと諦めていた気持ちは、その暖かさで吹っ飛んでしまいました。妻を帰してもらう事はできませんでしたが、私の心は感謝の気持ちでいっぱいでした。
大法弟子は私たちのような家族を忘れていません。旧正月が近づくと、大きな魚を買ってくれる大法弟子もいれば、定期的にアツアツの中華まんを、また、子供に美味しい食べ物を持ってきてくれる人もいました。これらの情景は私の心にいつまでも残り、彼らの温かい気持ちに心から感謝しています。
家族からの手紙
大法弟子の家族として、耐えてきた圧力は一言では言い尽くせません。ある日の夜、母のいない子供の寂しさをまぎらわすために、子供を連れてスーパーマーケットに行きました。中をぶらぶらと歩き回り、どうしても家に帰りたくなくて、2人で広場に座り、向かいの大きな電子スクリーンの広告放送をボーっと見ていました。交わす言葉もなく、バスの最終便が来て、やっと家路に向かいました。
「離婚した方がいいですよ」と友人から言われ 「それは駄目だ。今、離婚すれば、井戸に落ちた者にさらに石を投げることになってしまう。そんなことは私にはできない。今の私にできる最大のことは、妻がこの難関を乗り越えることを手伝うことだ」と言いました。
次の日から、私は励ますために妻に1通また1通と手紙を出し続けました。本当は何を言ってよいかは分からず、とにかく良くないことを避け、良い知らせだけを書きました。 「私はお金を結構稼いでいるので、使うのにあまり計算しなくてもいいくらいだ」と書きました。実際は、私はすでに数カ月前から失業していましたが、彼女を安心させるために、わざわざ元の勤め先から社名入りの便箋をもらって来て、その裏に、良いたよりの作り話をいろいろ書き、彼女に手紙を出していました。
一度、こんなことを書きました。「お前がどこにいても、振り向けば必ずそこにいるから覚えておいてほしい」。そして、自分の笑顔の表情を描き添えました。別の日には 「待ち望む」という題名の詩を書きました。「愛しい妻よ、私たちは今生の絆となったが、今、お前の身に災難が降りかかり、季節の移り変わりがあまりにも遅く、待つに忍びない。もっともっと愛しいお前に会いたい、今はお前の体を大事にするのが何よりだ 涙を流している愛しいお前を見ると、会う日を待ち望んでいても、夜も眠れず心配でならない。今の別れの悲しいこの思いをどうか分かって欲しい、ふたりは遠く遠く隔てられてはいるが ふたりの心は固く固く今も繋がっている、愛しいお前を思い、会いたくて会いたくて仕方がない」と待ちわびる心を詩にして書きました。またある日、私はこうも書きました。「幸福よ 幸福よ(これは家で彼女を呼ぶ際の呼び名)会いたくて、会いたくて、仕方がない、冬が来て久しいが、春はまだ遠いのだろうか?」
ある日、妻からの返信が来ました。私は手紙を服の一番奥にしまっておき、逸(はや)る気持ちを抑えて、労働教養所を出て一目散に家に向かいました。道中、手紙が落ちていないかを恐れ、何回も何回も確認し、出所の希望を抱いて持ち帰りました。私は慎重に手紙の封を切り見終えた後、出所できない現実のあまりの辛さに耐えかねて号泣しました。その時、窓の外にいる小鳥を見て思いました。「羽の生えた小鳥はどんなにいいだろうか、本当に羨ましい。自由自在に会いに飛んでいける。愛しい人に会えず、生きていくことは、なぜこんなにも辛く、悲しく、苦しいのだろうか」
私の労働教養所に対する全ての反抗が、役に立った
ある日の夕方、突然、労働教養所から電話があり、妻にお金を送ってほしいと言われました。私は「妻自身からその話を聞きたい。1千元はもちろん、1万元でもすぐに送金します」と言いました。警官は強硬な態度で「駄目だ。中には電話がない!」と言いました。私は「本当に妻自身がお金を要求しているかどうか、私にどうして分かりますか?」と答えました。実は、妻と会う機会を得ようとしただけです。私は「農村にも道路が整備されているのに、そこには電話もないと誰が信じますか?」と言い返しました。
私は相手に話す隙を与えず 「妻は一体どんな罪を犯しましたか? 労働教養の通知書も私は受け取っていません」が、妻は「検察室に手紙を送ることができる」と言いました。「それは名ばかりではありませんか? 妻に一言伝えて頂けませんか?」と聞くと 「伝えてもいいが」と言われて 「じきに北京に行って弁護士を通じてあなた方を訴えます。死ぬことなどちっとも怖くありません! 命は投げ捨てますから!」と言いました。相手はすぐに態度を和らげ「誰を訴えるのか?」と聞かれ、私は「派出所、公安局、610弁公室、労働教養所の全ての人員を訴えます!」と答えました。「これは私から伝えられません」と言うので 「それなら、私に何をくどくどと言っているのですか?!」と言って、電話を切りました。実は、私はすごく怖くなって、自身の安否を恐れるのではなく、妻に被害がおよんでしまうのではないかと怖くなりました。それからと言うもの、私はほとんど眠れませんでした。テレビドラマの尋問のシーンを見れば全身に冷や汗をかき、妻もこのような迫害を受けているのではないかと思いました。私にとって、それが苦痛でならなかったのです。当時、目が覚める度に奇跡を待ち望み、妻の消息を期待していました。
旧正月明けに、労働教養所から面会の知らせが来ました。前夜、私は一睡もせず、彼女に会えたら何を話し、何を話してはいけないか、何度も考えました。ようやく私の番になりました。やっと妻に会えたのに、どうしても涙を抑えることができず、十数分の間の話題は、ほとんど体を大事にするようにと妻に言い聞かせ、子供と両親はみな元気でいるとか、妻に心配かけず、慰めたいとしか考えていませんでした。面会後、リーダーと自称する人に足止めされ 「なぜ口汚く、お前に電話をかけた役人を罵ったのか?」と聞かれました。「罵ったのではなく、ただ事実に基づいて真実を求めただけです。なぜ妻との通話を許さなかったのですか? なぜ労働教養の通知書を私に渡さなかったのですか?」 私の一連の「なぜ、なぜ、なぜ、」に、そのリーダーは少し考えてからこう言いました。「今まで、大胆に私たちを罵る者がいなかった。お前が初めてだ」というので 「きっと私だけではありません」と答えました。リーダーは「行っていいが、今後、そのような態度で話してはいけない」と注意しました。私はそれを聞いても相手にしませんでした。
ある面会の日に、私が登録手続きに行くと、面会が中止されたと言われました。私がなぜかと聞くと、事務員は「規律違反したからだ」と答えました。「私と何の関係がありますか? 私は面会に来たのです」と言うと、相手は「規律違反したので、面会は許されない」と繰り返しました。私は「あなた方の上司に会いたい」と申し込み、面会室で主任に会いました。主任は「お前の妻が『転向』に同意すればすぐに面会を許し、減刑もする」と言いました。私は「たかが面会でしょう? もう会わなくても結構です」と言い捨てて、その場を後にしました。離れ際に、振り向いてみたのですが、主任は口をぽかんとして突っ立ったままそこにいました。
1カ月後の面会日もやはり中止になりました。私は「なぜですか? 妻に何か事故が遭ったのですか? 今日は必ず妻に会わなければなりません。そうでなければ政治法律委員会にあなた方を訴えに行きます」と言いました。しばらく待ってから、刑務所の役人は小さな紙切れを持って出てきました。それは妻の筆跡で 「私は大丈夫ですから、安心して下さい」と書いてありました。聞く話によると、このようにメモを渡すのも、この労働教養所始まって以来のことだそうです。
次の面会日もダメで、具体的な原因説明もありませんでした。私は上司を訪ねようとしましたが、ある長身の男性警官に遮られて、憎々しげに「会えないと言ったら会えない」と言われました。相手の体つきが逞しくて、少し頭をもたげないと警官の顔が見えませんでした。しかし、この時一気に強い力が湧き上がり、警官に向けて大声で叫びました。「法を知っていますか? 面会を止めたら法を犯したことになり、違法です!」と叫び終えてから考えました。「もう何もかも投げ出して、面会できるなら打ち殺されない限りやってみるしかない」と思いました。その膨れっ面の警官はこう言いました。「俺には権限がない、罵って何になるのか? 俺はただの治安管理者だ」
またの面会日はすごく暑くて、私は間違いなく今日も会えないと思って、事前に往復の乗車券を買いました。なんと手続きを済ませた後、面会できると言われました。妻に会えた時、本当に感無量で頭の中が真っ白になり、事前に考えた話も全部忘れ、年老いた両親や子供の話ばかりしました。すると、妻の横にいた警官が妻の耳元で、何かを囁いているのを見ました。毎回、私が妻に宛てた手紙がこの刑務所の警官たちを感動させており、妻との面会をさらに15分延長してくれました。
後日、妻から聞いた話ですが、私のすべての反抗的な態度が功を奏していました。刑務所の警官たちは「彼女をいじめない方が良い。その夫は気性があまりに激しいので、万が一何かあれば、俺たちの命まで危うい」と囁(ささや)かれていたそうです。実は、私の気性はちょうどその反対で、幼い時から厄介事を起した事はありませんでした。大法弟子の家族として、私たちは立ち上がって、正々堂々と生きるべきだと思います。家族のため、そして自分のためにも、断固とした態度をとることで、この迫害を制止することができると思います。
法輪大法の弟子の家族は皆、立ち上がってほしい
妻が出所した1カ月後、私は再び職に就くことができました。最近、私は何度も笑いながら夢から目覚めています。周囲の人々は私が善人であるがゆえに、よい報いがあったと言っています。
時間が経つに従って、より多くの人は法輪大法の素晴らしさを知るようになりました。私が自分の経歴をここに書き出したのは、もっと多くの法輪大法の弟子の家族が、何事も恐れず、勇猛果敢に立ち上がって、身内を守ってほしいと強く望んでいるからです! 法輪大法の弟子たち、彼らは皆、善良な人たちばかりです。ともに、自由な明日を迎えるために、手を携えてがんばりぬきましょう!