【明慧日本2017年3月22日】私がいかに恨む心を取り除いたかの体験を皆さんと交流したいと思います。
恨む心には「怨」と「恨」の両方が含まれていると思います。自分の私欲が満たされていない、あるいは自分の何かが影響されたら、つい不満と恨みが生じます。日常生活の中にせよ、同修との接触の中にせよ、不満が生じればすぐに気づいて、その場でその情緒を取り除けばいいのですが、それを重視せずに放置して、そのような情緒が積み重なれば、時間が経つと憎しみに変わります。恨む心は大抵身内の間に生じるものす。
とても長い期間に積み重なった恨む心や幼少時代からの怨恨は容易に取り除くことができないものです。私が母を恨む心は小さい時から形成されたもので、その心を取り除くことはとても難しく、とても疲れ、何回も繰り返しました。
子供が多く生活のプレッシャーが大きいため、母は乱暴な性格の持ち主になりました。私が小さい時、よく母に手を出して叱られました。私はよく母に反発して、あなたはどうして他の母親のように子供を大切にしないのかとよく母に口答えをしました。父と母もよく喧嘩をして、親が喧嘩する時、子供たちはご飯さえろくに食べられなくなります。すべては母のせいで、些細なことでも激怒してくどく文句を言うのは母が悪いと、小さい時から私はずっと思いました。中学生の時、母と喧嘩をしたことがきっかけで、それ以降私は「お母さん」と呼ばなくなりました。結婚してからでも、法輪大法を修煉してからでも、私はずっと「お母さん」と呼ばず、母と会話もしませんでした。
修煉する前、私は性格が強くて強情で、些細な事でも白黒をつけたくて、母に対する恨みも重いものでした。修煉してから、大法の基準に従って良い人になろう、母親と喧嘩することは間違ったことだと分かっていても、表面上直しただけで、母を恨む心を本当は取り除いていませんでした。まだ母を恨んでおり、これを恨みあれを恨んで、母を怒鳴ったりもしました。怒鳴ってからとても後悔し、自分を責めたりもしますが、次回、また同じことに遭ったらまた心性を守れずかんしゃくを起こしてしまいます。どうして恨む心がこんなに強いのかと私自身もとても悩んで、法を学ぶ時さえ、母に対する恨み、姉妹に対する不満で頭いっぱいになります。姉妹たちは皆私の文句や不満が多すぎると言っています。
師父は『轉法輪』に「どんな執着心であれ、それを持っているかぎり、さまざまな環境の中でそれを少しずつ削り落とさなければなりません。さまざまな失敗を経験させ、失敗の中で悟らせることこそ修煉なのです」と説かれました。私は恨む心を除去する過程はまさしくその通りです。
父も母も80歳を超えて、ここ数年、体が弱く自力で生活できない状態です。私たち姉妹が交代で実家に行って両親を介護しています。母と一緒にいる時間が長くなると、心の底に存在している恨む心に唆されて、私は時には心性を守りきれず、寝たきりの母と口論し、とても聞き苦しい言葉を母に投げます。恨みの大きさに私自身もとても悩んでいます。
恨む心を徹底的に取り除こうと決心させたのは姉の言葉です。姉は「法輪大法を学んでから良い人になると聞いたけれど、あなたはどうして変わらないの? 仏教を学んでとても良くなった人を私は1人知っている。あなた、仏教を学んだらどうですか」と言いました。法輪大法は長年迫害されていても、修煉を止めるようにと家族の皆は一言も私に言ったことがありませんが、今、母に対する私の態度を見て、家族は大法に悪い印象を持ち始めました。私はすぐ「姉さん、法輪大法が良くないのではなく、師父の教えに従わない私が悪いのです」と説明しました。
自分の言動はすでに大法に泥を塗った、母に対する恨む心を必ず取り除かなければならないと私は意識しました。修煉してから自分は本当に変わった、優しくなったと家族に見せないといけないと私は思いました。
どうして私の恨む心が取り除けないのか、根っこはどこにあるのかと考えて、夜眠れない時もあります。同修に聞くと、同修は「あなたは善をやり遂げていません。優しい言葉は真冬でも人の心を暖める、きつい言葉は真夏でも人の心を冷ます、ということわざを知らないのですか? 修煉者として自分の母親にかんしゃくを起こしてはいけませんよ」と言いました。
私が母を傷つける言葉を言い、かんしゃくを起こすのは言うまでもなく「悪」の現れです。「悪」とは何でしょうか。私は師父が『精進要旨』の「佛性と魔性」に説かれた言葉を思い出しました。「人の魔性とは悪であり、殺生、盗み、利己、邪念、悪事をそそのかすこと、デマの煽動、嫉妬、悪らつなこと、発狂、怠惰、乱倫等々として現れるのです」
かんしゃくを起こす時、まさしく師父がおっしゃったあの魔性が現れた「悪らつなこと」と「発狂」です。その時、自分は全くあの魔性にコントロールされて、自制できなくなっていました。
魔性を除去してこそ初めてその恨む心を除去できると思います。本来、母に対する長年の怨恨の中から、私は自分の魔性を除去して向上するべきですが、しかし私はそれを悟らず、長年、向上していません。私はその魔性にあまりにも強くコントロールされてきました。
自分の魔性の根源は私心だと私は分かりました。私心のために実は私は母の介護をしたくありません。「小さい時あんなにひどく私を叱って叩いたりして、いま年を取って私に迷惑ばかりかけるなんて」と思って、心のバランスを取れなくなります。私心のほか、また嫉妬心、闘争心、母に対する反逆、独りよがりの心などなど、いずれも人の魔性です。
では、自分の問題点に直面して、大法弟子として私はどうするべきでしょうか? 私は以前より強く発正念をしました。最初に発正念をする時、頭の中で母に対する様々な不満と恨みがよく湧いてくるので、「その良くない情緒は本当の私ではない」と一所懸命それを否定しました。そして、また母に会う時、本当に以前の恨みは少しも思い出さなくなりました。しかし暫くすればまた湧いてくるので、私はもう一度それを否定します。そのように繰り返しました。
私たち姉妹は昼間に交代で実家に行って両親の世話をします。通常、後の人が来てから先の人が帰るという感じでやっています。3番目の姉と私、2人で当番をやった時、姉が遅刻すると「どうしてまだ来ないのか」と母はくどくど愚痴をこぼし始めます。以前、その時に私はいつも腹が立って「私たち姉妹の間でうまく段取りを取っているから、お母さんは心配する必要はない、何をくどくど言っているの」と母を責めます。恨む心を重視してから、私は修煉者ですので、事が起きると自分の不足を探すべきで、どうして常人を責めるのか、自分に絶対に不足があると思うようになりました。
不足はどこにあるのか、内に向けて探して本当に見つかりました。私は母の立場に立って問題を考えていません。私の家は実家から比較的遠いので、3番目の姉が来るのを待てば、私の帰宅は遅くなります。母がくどくど言うのはなんと全部私のためなのでした!? 私は母の心を分かっておらず、かえって母を責めていました。そのように考えると、母を恨む気持ちは完全に無くなりました。一歩退いて、母がくどくど言うのは私のためでなくても、私は病の母を思いやって、私の修煉を助けた母に感謝しなければならないのに、どうして母に怒ったりするのですか。そのように、母を恨む心が出てくると、私はそれを見逃さずに否定し取り除いて、同時に自分の不足を探しました。
恨む心を除去するには、法を多く学ぶことが不可欠です。何かに出遭う時、自分が冒頭に出した一念が法理に合致できるように、頭の中の雑念を一掃して代わりに法理を入れて、法理で自分を洗浄します。一時、常人生活のいろいろが目の前にありながら、私の魂はなんと遠いところに行ったように、冷静に俗世間の全てを俯瞰するような気がしました。
両親の介護をするために自分の時間もなくなるなどと思わずに、親孝行するのは娘として当然のことだと思うようになりました。両親の介護をするのは、実は私の生活に何の支障ももたらさず、かえってそれは私の修煉の一部であります。実家に向かう途中に今まで通り法輪功の資料を配ることができ、結局、私はただ少し休む時間を削っただけで、生活は以前のようにうまく回っていて、私は何の損もしていません。
今、私はもっと両親を思いやることができ、どんなことでもできるだけ母の意に従って、もう母と口論もしなくなりました。実家にいる時に、私はできれば家事を多くして、そうすると他の姉妹は少し楽になります。私はもう怒ったり腹を立てたりしなくなり、私は自分の基準で相手に要求したり評価したりせず、ただただ大法の基準で自分を厳しく律しました。時には気が緩んで恨む心が復活したら、私はそれを見逃さずに気づいたらすぐ除去します。恨む念が生じると、以前の私はそれに従ってもっと多くの不満なことを考えましたが、今の私は恨む念と反対のことを考えます。私に執着を取り除く機会を提供してくれた母に内心から感謝しています。
何回もの繰り返しを経た後に、ある日、母に対する長年の恨みはきれいさっぱり無くなって、心境は広々として明るく、気持ちは水で洗い流したように澄みきっています。私はやっとその恨む心を取り除いたと分かりました。
師父が『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』で、執着心の除去に関して説かれた言葉を下記に記します。
弟子:自分のおごりや嫉妬などの執着を認識していますが、どうしてなかなか取り除くことができないのでしょうか?
師:もしこれらのものを本当に重く見ることができれば、これらの執着を抑制し、弱めることができ、徐々に完全に取り除くことができます。もし、自分が問題を自覚しており、気持ちも焦っていますが、実践の中で真にそれを抑えたり抑制したりする努力をしていなければ、それはただ問題を認識し、この種の思想活動を感じたことに留まり、それを抑制するための行為を起こしていません。つまり、問題を意識できたのですが、実践の中で修していないということです。一方、自分が身を入れて修し、実践の中で真に努力しているが、これらの執着はまだ存在しているという情況もあります。なぜならば、長期にわたって形成したこれらのものは、旧宇宙の生命がのしかけてきた要素によって一層一層に分割されたため、一つの次元を突破したら、その一層のものが取り除かれ、さらに一つの次元を突破したら、その一層のものが取り除かれていきます。このように、それらのものが徐々に弱まり、少なくなります。一気に全部取り除かれることができないから、このような現象が現れています。ほかの多くの常人の心をも含めて、これと同じ情況なのです。
また、母に対する恨む心の背後に思想業力が存在していると、今の私は分かっています。私は頭の中でいつも母の良くないことを考えるため、だんだんと他の空間にもう一つの「母」を形作ってしまいます。但しその「母」は私の思想業力でできたものです。偽りの「母」は現実世界の母をコントロールすることができ、私を怒らせて、私の修煉を妨害させるように母に指図しています。一時、私は本当に妨害をされて、修煉に自信を無くし、とても意気消沈してしまいました。それが妨害だと気づいてやっとその意気消沈の状態から抜け出ました。
以上は母に対する恨みを取り除く体験です。不足のところは皆様のご叱正を仰ぎたいと思います。