文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年3月25日】私は1998年から法輪大法の修煉を始めました。修煉でつまづいた後に、心の暗い影から立ち直った過程について、皆さんと交流したいと思います。
修煉の最初の段階で、苦しみに耐え、座禅して頭が痛くても続けて行い、学法も精進して、良くない考えが出ると、すぐにつかみ取ることができました。
迫害が始まりましたが、ちょうど1年の学法の基礎のおかげで、大法と師父に対して疑ったことはありませんでした。しかし、修煉の時間が短くて、各々の弱点は異なるので、私も2回ひどくつまづいた経験がありました。
1回目は色欲の問題でした。もともと自分はこの方面で問題がないと思っていましたが、本当に出てしまい、まるで「あたかも夢のごとし」で、信じられませんでした。つまづいた後、心の影をなかなか取り除くことができず、それによって多くの問題が起こり、刑務所に不当に拘禁されたこともありました。
2回目は、刑務所で長時間眠らせず、正念が足りないとき、『四書』を書いてしまいました。警官は大法弟子がつまづいた後に立ち直れないように、わざわざ「私の人格を以って保証します」と私に書かせました。
しばらくして、私はようやく勇気を持って、警察官の隊長の事務所に行き「以前書いた『四書』は本心ではなく、私の本当の考えではないので、その声明を破棄してください」と言うと、隊長が「人格を以って保証したではないか」と聞いてきたので、「私には人格はなく、神格しかないのです」と答えました。すると隊長は何も言わなくなり、それ以後、私を困らせることがなくなり、今回の関を乗り越えられたのは比較的平然としており、心の影を残すことはありませんでした。
そして、1回目のつまづきは、つまづいた後、数年後たってもまだ心に影を残しています。自分自身が感じたのは、つまづく前は精神状態がとてもよくて、どんなことも正しく対処できましたが、心の中に影ができた後、以前のような精神状態に戻すことができず、もし何かあって落ち込んでいた時、よくない考えが全部頭の中に入り込んできました。たとえば、自暴自棄になったり、アダルトネットを見たりしました。このようなとき、心の中で間違っており、すべて思想業力に妨害されていると自覚していましたが、自分が弱くなった半面、思想業力が強くなり、数回思想業力に悪事を働かされ、その後すぐ後悔しました。これからよくしていこうと決心しましたが、繰り返しているうちに、それがまるで死の難関のようになり、そのまま進んでいくとだめになってしまいそうでした。
ある日、子供たちの表現から大人の欠点を見つけました。それは、子供たちがいくらひどく喧嘩しても、5分後にはすぐ仲直りしてまた一緒に遊びに行ってしまい、まるで何事も起こっていないみたいでした。その時パッと悟り、子供の思想が単純なので、心理の影を残さないのですが、大人の思想は複雑なので、心の影が残ってしまいました。心の影はよくないものであり、つまづいた後、なかなか立ち直れず、精進もできないので、この心を捨てるべきです。
同修が書いた交流文章『一人の仙人から見た大法弟子』を読んで、文中の修道者が大法弟子のこの問題に言及し、やはり自分に対して自信がなく、師父と法を信じられないという表現を表しました。 師父は「転んでも構いません。大丈夫です! 早く立ち直りなさい!」[1]と説かれました。 師父も私たちが修煉の中で犯した過ちを私たちの修煉過程とみなしており、師父も「師父はあなたを見捨てませんが、あなたも自信を失ってはいけません。機会はまだあります。私が必ずあなたを成就するまで済度するので、これでもあなたに自信がないのでしょうか?」[1]と説かれています。 なぜ私たちは自分に対して自信がないのでしょうか? それは師父と法を信じられないからではないでしょうか?
私は自分に対して「原因が見つかり、問題は自分に対して自信がないため、師父と法を信じられず、これから自分に対して自信をもって法を得たばかりの時のような、子供のように純粋になり、大人は複雑すぎるため、それは執着なので、放下しなければならない」と言いました。その話を言い終わると、心身ともに以前にはなかった軽やかさを感じました。
自分の修煉に対して自信を持つのは主意識が強いということを表しています。主意識が強ければ修煉が強くなることになり、それはなぜつまづく前に正しく修煉に対処していたのに、つまづいた後、精進できなくなってしまった原因でした。
十数年の時を用い、至難の関を突破し、遅くなりましたが、本当の修煉を始めたばかりの感覚を見つけ出し、修煉に対して重い感覚はなくなり、修煉は本当に素晴らしいと感じるようになりました。昨日、また1時間座禅することができました。これは師父が私を励ましてくださっているのだとわかりました。師父は私たちを見捨てられることはなかったのです。
以前の修煉形式はもし大きな過ちを犯したら、修煉はダメになってしまいましたが、もし私たちが自分の心の影を乗り越えられたら、つまづいた後すぐに立ち直って、修煉の道で私たちを阻むものはなくなり、未来の修煉者にとって貴重な参考として残り、悪いことが良いことに変わるのではないでしょうか?
注:
[1] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』