文/米国在住の中国人大法弟子 鈴蘭
【明慧日本2017年3月26日】以前、師父の新経文を読む際、その懇々とした教えの中で「よく響く太鼓が重いかなづちに叩かれても怖くない」というやる気や意欲が湧きますが、師父の『二〇一五年米国西部法会での説法』を聞いた後、数日経っても心はずっしりと重く感じました。卒業試験はいつか必ずやってくることを知っています。しかし、個人にとって、その結果は合格か、不合格かのどちらかであるということを真剣に考えていませんでした。
自分が大法の中で修煉していることに確信を持ちつつも、多くの執着や人心、観念がいまだにきれいに取り除かれていないことに、常に苦悩していました。2015年米国西部での法会の参加の前、聞きたい質問をよく考えて、聞き方を何回も書き直して、何回も涙を流しても、「もし時間が間に合わないなら、私はどうすればいいですか?」という質問を率直に聞く勇気がありませんでした。質疑応答の時間になったとき、私は自分のメモをカバンにしまいました。師父はすでに私の質問に解答して下さったのです。「実は修煉者として、心を落ち着かせ、行うべきことを行えば、すべてを手に入れることができます。この三つのことをしっかり行うことができれば、天の果て地の果てにいても、神や師父の法身はあなたを見守っています」。[1]
弟子として、また平気で師父に時間を伸ばして頂きたい、あるいは慰めの言葉を掛けて頂きたいと言えますか? 『轉法輪』を手にしたその日から、私達はすでに大いなる法の光を浴びて、済度される希望を頂きました。師父の金槌を受けて私はやっとあることに気づきました。その希望は双方的なもので、私の一方的な「救ってほしい」という願望だけではなく、もう一方では「私の考えや行為が救われることに値するのか」という一面も含まれます。
『二〇一五年米国西部法会での説法』を繰り返し学んでいるうちに、師尊の無量な慈悲の中で、私の心は徐々に静まりました。師父はこうおっしゃっています。「修煉者は執着を一つ、また一つと取り除いていきますが、皆さんの場合、ほぼすべての執着があり、それを一層また一層と弱め、弱め、さらに弱め、弱め、ますます弱くなり、少なくなるまで弱めていきます。私はこのように皆さんにしてあげています。これは大法弟子が円満成就する前に常人の中で正常に生活し、正常に人間の中で人を救うことができることを保証し、同時にこれらの完全に取り除かれていない人心があるからこそ、あなたが人心の妨害の中で修煉し、常に自戒の念を持ち、自らを修め、大法弟子の責任を完成させることができます。これはすなわち、威徳であり、素晴らしいことです。これはつまり、皆さんが歩んだ道です」。[1] 大法の中で修煉し、佛法を聞くことができれば、私にとっての時間は常人の物理的な計りに囚われなくなると思います。なぜなら、大法には時間の本質を変える力があるからです。
いわゆる「間に合わない」は、まもなく現れてくる未来と、戻ることのできない過去に対して嘆き、悔いることだけです。忘れてはならないのは、過去と未来の間に現在があります。今に身を置いて、常人は七情六欲の中で来る日を繰り返すだけですが、修煉者は魔難の中でつまずいてしまうこともありえます。試験に赴(おもむ)きたいなら、勇猛邁進するしかありません。歴史のこの瞬間、瞬間の中で急ぎましょう。1歩ごとが今で、1歩ごとが過去になり、1歩ごとが未来に向かうことになります。
師父の私たちに対する態度は一度も変わっていません。しかし私たちは自分を甘やかしてはなりません。どうすればいいでしょうか? 毎日、目が覚めるたびに、自分に気づかせて下さい。私はまず、1人の修煉者です。その次の日も、私は修煉者です。慣れている事から考えてみて下さい。今日の煉功で入静しましたか? 心を静めて学法しましたか? 発正念の際、念を集中させましたか? 衆生を救う際は真心からしましたか? 法の暗記の際、さらに向上できましたか? 日に日に発生する良い事や不機嫌な事のすべてを法を持って判断しましたか? 人と付き合う際は自我を保護する心があったかどうか、1人でいる時に雑念や妄想に左右されているかどうか、魔難がやってくるときに私心や執着を放任させたかどうかを考えるべきです。これらはまだ基本的な心構えですが、そうしなければ、ただどうしようと嘆きながら途方に暮れるしかありません!
時間が早いか遅いかは気にせず、法にどれだけ同化したかを自問すべきです! 説法を聞いた後の重い気持ちから落ち着くまでの考えを概括してみました。同修の皆さん、手を胸に当てて今一度真剣に考えてください! 不足があれば、修煉における基本的な心構えを、一つ、一つ、早く正してください!!
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一五年米国西部法会での説法』