千古の謎「ろうそくの影に伴う斧の音」の真実の姿を観る(下)
文/ 聖縁
【明慧日本2017年3月29日】修煉の時間は、師父に何度も延長していただきました。多くの弟子はそれを大切にし、絶えず精進していますが、一部の人は時間が経つにつれて緩み、正法修煉の時間が延長されることに半信半疑になり、怠惰するうちに中士まで落ち、甚だしきに至っては圓満成就に対しても動揺し、正法修煉を放棄または大法に反対する側に走りました。————これらはすべて師父や法を完全に信じていないことによる結果です。遡れば、その根源は旧勢力が中華神伝文化を破壊し、現代人の大法を認識することに妨げをもたらしたからです。
当シリーズ文章は天象文化の玄妙な正確さを公開し、法を正す時間が一回一回延長されていることを証明し、同時に関連する偽りの歴史を暴露し、初めて封じられた歴史の真相を公開します。様々な惑わしから引き起こされたことによって、大法から離れた昔の同修を再び大法に戻らせ、このかつてない歴史の本当の価値を表す時期に、人間が存在する本当の目的を認識させ、このように惑わされている人はこの妨害を乗り越え、精進されるように願います。————本当の素晴らしさは全て大法の中で真に修煉する中で現れます。
(前文に続く)
千古の謎「ろうそくの影に伴う斧の音」の案件について私たちは前回、歴史の真実の映像を通して、簡単で完全な当時の状況を公開しました。それはただの始まりであり、後の厳しい悪の報いを一つ一つ展開し、完全にこの歴史の按排を公開し、天の按排の本意を後人に残し、今の人間に天道の警告を表します。
6.皇后は力をつくして戦おうとしたが罠に落ちる
太祖が崩御し、宋皇后は悲しみを堪えながら、18歳の次男・趙德芳を宮殿に来るようにと大太監に伝えさせました。彼女は諦めきれず命をかけて戦おうと思いました。彼女は太祖の遺言として、趙德芳が即位するように偽って伝えようと考えていました。そうすれば晋王に対抗できると思い、彼女はこれが唯一の機会だと思いました。
しかし、大太監・王繼恩は晋王に買収され太祖に毒を盛った張本人なので、王繼恩は直接晋王に報告しに行きました。晋王の宮殿の前門に着くと、晋王の腹心・程德玄も宮殿の前に立っていました。大太監は来た目的を程德玄に話すと程德玄は喜びながら「今日が晋王の大安の日だと占いました。私はすでにここで二時辰(一時辰は今の二時間)待ちました」と話しました。このことは史料の中にも記載されていますが、現代人は占いを信じないので作り話だと思っています。
私は功能で確認すると、それは馬韶という人物が占った「晋王明日大安日」の結果ですが、馬韶は占いのレベルが低いので自信がなく、程德玄も自信を持てませんでした。程德玄は晋王に伝えたかったのですが、伝える勇気がなく、宮殿の前でずっと迷っていました。もし、占いが当たり、先に晋王に伝えれば、晋王が即位することの最初の功績を立てることになります。逆に間違って伝えれば殺される可能性さえあります。ですから深夜二時になってやっと確信を持つことができました。
王繼恩は德玄の話を聞き、二人同時に門を叩きました。
趙光義は王繼恩の話しを聞きましたが、太祖の宮殿に入る勇気がありませんでした。なぜなら太祖に騙されて宮殿に入ったところを殺される心配があるからです。昨夜は太祖に酒を勧めましたが、今どういう状況になっているのかまだ把握できていません。王繼恩は「時間が経つと他の者が帝位に就く可能性があります」と申し出ました。こうして趙光義は完全に把握できていない状況の下、雪が降る夜に命賭けの覚悟で程德玄や王繼恩について太祖の宮殿に入り、帝位を奪い取りました。
その後、史書にも記されていることが現れました。王繼恩(大太監)が戻ってくると、宋皇后は「德芳は来ましたか?」と聞くと、「晋王が来ました」と答えました。宋皇后は大変驚き、太祖の話を思い出しました。「あなたは晋王と対抗しても相手になりません」。周りの者は全て晋王側の者だとわかり、自分が弱い女で勝ち目がないと思いました。恐怖を感じ、思わず心の内を口にしました。「私たち親子を頼みます」
晋王は兄嫁が何も知らず、彼に対抗しないことがわかって大変喜びました。そして悲しい顔をして「すべて保障しますからご安心ください」と言って宋皇后を安心させました。
7.皇位に落ち着き、残酷な仕打ちを行う
趙光義が即位して宋太宗になりました。王繼恩はすぐに直接毒を盛った小太監を殺して、宋太宗に報告し、宋太宗の最も信用できる部下にのし上がりました。
趙光義は976年に自ら即位して皇帝になり、まず恩恵を使って皆を手懐け、皇位の座が落ち着くと、残酷な仕打ちを行い始めました。979年に趙德昭(太祖の子供)が死亡、981年に趙德芳(太祖の子供)が死亡、984年趙廷美(趙光義の弟)が死亡しました。この全ては趙光義が同じ種類の毒を使って毒殺し、さらに大金で買収して毒を盛らせた者も口封じのために殺しました。史書に記されている死因は全て趙光義が作った偽りの史料です。
民間にずっと伝わっていることは「十国後蜀の第2代皇帝・孟昶(もう ちょう)、十国南唐の第3代国主・李煜(り いく)、十国・呉越の第5代国王・錢俶(せん しゅく)は全て趙光義に毒殺され、また有名な美女・花蕊夫人(かずいふじん:孟昶の妻)も趙光義に射殺されました」ですが、私は歴史の映像を確認するとそうではありませんでした。孟昶は投降した後、鬱積(うっせき)のため病死しました。その後、花蕊夫人は太祖の妃になって病死しました。錢俶は毒殺ではなく、60歳の誕生祝いの時、酒を飲みすぎて死にました。宋太宗の名声が悪すぎたため、後人はこれらの疑わしい急死はすべて彼の仕業だと考えていました。
民間の伝説によると趙光義は、李煜の妻(有名な美女・小周後)を奪おうと考え、人を送って李煜を殺しました。これは事実です。しかし毒ではありません。毒を使えば血を吐いて死亡するので、小周後は彼がやったと疑い、彼のことをさらに恨み、世の人々もこのことと太祖の死を結びつけることになり、そうすれば大変な混乱をもたらします。だからこそ趙光義はよく考え、達人の暗殺者を使って一本の細長い針で頭の百会穴から大脳に差し込み、痕跡を少しも残さず殺害しました。小周後も自分の夫が急死したと思い、傷がなく、中毒の症状もありませんでした。彼女は太宗の後宮に入らされましたが、前の夫を恋しく思い、太宗を軽蔑し、しばらくすると鬱積のため死にました。
8.兄嫁が死に、理性を失って狂気じみる
宋皇后は太宗が即位すると軟禁され、身の周りの者は全て太宗の目や耳でした。宋皇后は995年に死亡しました。その時太祖の2人の息子が不可思議な死を遂げました。宋皇后はこれが太宗の仕業だと推測し、非常に怒り、言葉の中に太祖が毒殺された時の真相が漏れてしまい、周りで監視している太監や宮女が宋太宗に報告しました。
太宗はそれを聞き、兄嫁がすでにわかっていると知り、非常に驚きました。彼は君子面をして、長い間腹の中であれこれ策を練っていましたが、兄嫁に見透かされており、笑われていたことを知り、あまりの恥かしさに怒りだしました。それからは「あなたが知ったところで私に何ができますか?」という顔で兄嫁を放っておき、死ぬまで軟禁しました。死後、葬儀を行なわず、太祖と同じ墓に入れず、拝むことも禁じ、適当に埋めて済ませました。朝廷の大臣たちはこのことについて議論していました。太宗は翰林學士・王禹を真っ先に見せしめとして、誹謗中傷の罪名で降格させて滁州に送りました。この歴史の汚点は、宋太宗を美化する宋史であっても隠すことができません。
9.悪事をやり尽くし、悪の報いによって六世で子孫が途絶える
宋太祖が反乱を鎮めて正常に戻し、佛法を盛んにしたのは元々運命の中に按排されていない良いことを行い、天ほどの功徳を作り上げ、結果として子孫さえも巨大な功徳を享受していました。しかし宋太宗は兄と兄の家族を殺しました。それは佛を滅し、高い次元で修煉している人を殺すのと同じ罪です。さらに太宗の運命に按排されていた正常に戻すなどの天ほどの大きさの功徳がなくなり、佛教を盛んにすることは太祖の功徳の延長になり、太宗の功徳はそこまでの大きさがなくなり、また何度も人を殺し、悪事をやり尽くし、罪が天ほどの大きさになり、三世の修行が全て台無しになり、現世でも悪報が出てきました。運命の中に按排されていた軍事の天才から愚かな人に変わりました。彼が何度も改変した史料の中には、隠そうとしても隠しきれない醜態があちこちに現れており、六世までの子孫に災いがもたらされました。
宋太宗が最も可愛がっていた長男・趙元佐は気が狂ってしまいました。史料の記載によると趙元佐は、叔父の趙廷美(太宗の弟)との仲がとても良かったのですが、叔父は「謀反」の罪で降格されて地方に行かされ、最後は死にました。趙元佐は叔父のために懇願したことがあります。しかし歴史学界はこの懇願と気が狂ったことに繋がりがあるかどうかを判断できません。私は功能で確認すると、叔父のために懇願したことは気が狂ったことと因果関係になっています。趙元佐は叔父が「謀反」の罪を着せられていることが分かり、父に対して力を尽くして弁護しました。宋太宗は大変怒り、趙元佐を酷く罵って、最後には自分が黒幕だということを無意識のうちに話しました。「私が彼らにやらせたのだ! お前はまだ弁護したいのか?!」。趙元佐は自分の父が黒幕だったとは全く思いもよりませんでした。そのショックが原因で気が狂ってしまいました。
次男の趙元僖は毒殺されました。これは現世現報の事例です。史料によると、「趙廷美(太宗の弟)が死んだ2年目、雍熙3年(986年)、許王・趙元僖は開封府尹(訳注:首都開封の知事)と親王尹京に封じられました。それは皇儲継承人に最も近く、まだ太子には封じられていません。6年後、元僖が急死しました。太宗は自分の愛している子供が死んでしまったため、悲しくてたまらず、元僖に太子を追加で封じました。しかしその後、宋太宗は元僖が側室の張氏に誤って毒殺されたことを調べ上げました。その日の朝に張氏は転心壺(訳注:切り替えによって2種類の酒を注ぐ器)で元僖と王妃に1人づつ酒を注いで退室しました。王妃に注いだのは毒が入った酒でした。元僖はふと閃いて王妃の酒を飲み、毒死しました。宋太宗は大変怒り、張氏を殺して元僖の太子を撤回し、そして簡素な葬儀に降格しました」。これは本当におかしい話ですね!
歴史学界では、張氏は供述で太宗が最も人に知られたくない秘密に触れたと認識しています。この秘密は趙元僖から伝えられたことなので、太宗は元僖を恨み、爵位を取り上げました。ではこの秘密は何でしょうか? 誰でも太祖の急死のことだと想像できます。ですから歴代でずっと太宗が太祖を毒殺したと認識している人がいます。
真相はもう少しで分かりそうですが、ただわずかな史料の中での推測や判断では、ここまでが限界です。下は私が慧眼通の功能で確認したことです。宋太宗は長男・趙元佐が気の狂った後、次男・趙元僖を皇儲(こうちょ・次期皇帝の第一候補)として育てました。その後、次男にどうやって毒を使って宋太祖を毒殺したかの秘密を教え、またその毒の使い方も伝えました。しかし趙元僖はある日、酒に酔った後にこの秘密を全部自分の愛している側室の張氏に教えました。張氏は将来自分が皇后になるため、同じ毒を使って誰にもわからないように王妃を毒殺したいと考えましたが、結局趙元僖が誤って毒の入った酒を飲みました。
太宗の三男・真宗は、自分の子供が続々と若くして死んでしまい、唯一残った子供は後の仁宗でした。仁宗は太平盛世を享受しましたが、子供がいませんでした。そのため太宗の別の子孫が即位し、つまり後の英宗でしたが、36歳で病死しました。その後、神宗が即位して37歳で病死、哲宗も24歲で病死、そして子供がいませんでした。その後の徽宗(きしゅう)は愚昧で国を乱し、欽宗(徽宗の息子)と共に全ての皇族が金国に拉致され、多くの姫や王妃が金国の娼婦になり、唯一逃げ延びたのは趙構でした。これは歴史上で大変有名な「靖康の恥」(せいこうのはじ)の事件です。
趙構の母、妻、側室、娘は金国に甚だしく侮辱を受けましたが、趙構は国の恨みや家族の恨みに構わず、ひたすら国土を譲り、和議を申し出て、金国(少数民族)に華夏(中国の古称)の正統な中華の脈を捧げました。そして趙構は、江南で金国に封じられた「皇帝」になりました。また秦檜(しん かい)を指示して岳飛を殺しました。趙構には子供がおらず、その叔母の孟太后は夢の警告によって、次に即位する太宗の子孫を探すことが恐ろしくなり、宋太祖の子孫を即位させることに変えました。この恥の中で太宗・趙光義の親族による帝位を終わらせました。
孟太后はどんな夢を見たのでしょうか? 後世の人々はいろいろな推測をしています。私はその夢を確認しました。夢の中には太祖だけではなく、太祖の2人の息子の德昭と德芳がおり、また太祖の三番目の弟の廷美、および南唐後主・李煜が出てきて、中毒者が血まみれの姿で太宗に殺された真相を話しました。そして孟太后に太宗の子孫が悪の報いを受けている因縁関係を教え、もし帝位を返さなければ天の理が許さないという夢でした。孟太后は驚きながら宋高宗・趙構に伝えました。趙構も怖くてたまらなくなり、すぐ太祖の言う通りにして、太祖の子孫を即位させることを按排しました。
10.重い警告と光輝く参照
宋太宗・趙光義の教訓は非常に深刻なものでした。もともと運命の中に按排されていた大功徳を得ることを兄が行い、兄の寿命が9年延長され、自分が9年に遅く即位しました。これらのことは本人には分かりませんでした。彼はただ帝位を奪うことについて熱心になり、残酷無情で何度も悪事を働き、大徳者を殺害するという大きな罪を犯して当世で悪報を受け、数世で修行したものを全て台無しにして、自分の子孫にも及びました。彼の子孫は六世にわたって悪報を受けました。史書にも記されていますがまとまっておらず、今回まとめて整えたことによって初めて因果悪報の本当の姿が見えました。
実は運命の中にどれだけ輝きを按排しても、善を行わなければ得ることはできません。手段を選ばず自分が思ったことだけ行えば自らの福を減らし、さらに自らを破壊し、子孫にも害を与えます。
北宋太祖乾德5年5月(967年4月15日)、五星連珠の天象の見取り図
宋太祖・趙匡胤は旧運命の按排から抜け出し、良知に基づき、さらにもっと高い天道に従って、素晴らしいことを行い、反乱を鎮め、正常に戻し、佛法を盛んにして天ほどの大きさの功徳を作り上げ、五星連珠の大凶天象を変え、寿命が9年延長され、歴史上で最も豊かな北宋の咸平の治(かんぺいのち)を切り開きました。これは中国の歴史上で二番目に大きな功徳でした。一番は唐太宗が佛法と道法を救い上げたことです。後世のため、当代のため、さらに当代の全ての人々に輝く参照を作りました。
(続く)
次集の目次
古今の天象から正法修煉の延長について考える(7)
──1999年:火星が氐宿の門に着き 中南海に陳情し盛世前の天劫が来る
1. 法輪功——佛家大法が広く伝えられる初期
2. 「通常」の弾圧から、綿密な罠かけまで
3. 政府に従い、罠に嵌り、法を保護する使命を皆で担う
4. 江沢民が発狂し、迫害を急ぐ
5. 「4.25」の大法を保護する活動がなくても、「7.20」の法難が必ずやってくる
6. 「4.25」の真実な意図は佛法を保護し、全世界を救い、盛世を開く