文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年4月8日】しばらく前、私の地域では数人の同修が不当に連行されました。私もその中の1人でした。すでに帰宅した私は、修煉の問題点を反省し、自分に対する恩師の度重なるご啓示を思うと、恩師にはもちろんのこと、同修にも大変申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
なぜ、私は邪悪な迫害に遭ったのでしょうか。それは、私の法に対する理解には大きな落とし穴があったからです。しかし、私はそれに気づきませんでした。長い間、私は法を正す修煉について、二つの部分があると考えました。一つは個人が法を正す修煉の中で歩むべき道があり、それは自分の特徴に従い、自分の長所を活かし、そして法を実証し、真相を伝え、自らの道を歩もうとする道です。もう一つの部分は全体を円容することで、つまり個人が三つのことをしっかり行うと同時に、全体に協力し、全体の要求通りに行い、力を合わせて協力するプロジェクトを秩序よく、規則よくすることです。そして、その協力の中で、私達は自我を放下し、円容な全体を形成し、協力することによって、恩師の全体に対する要求を理解し、協力と全体を形成する意味を理解することだと考えました。
このような認識は間違ったのでしょうか? 表面から見れば、間違ってはいません。しかし、間違ったのは、個人修煉と全体の円容をまったく別問題として分けて考えていたところです。それゆえに、私は同修と交流する時、いかに全体的に協調するか、いかに秩序よく協力することができるのか、表面だけの協力にこだわり、個人修煉について言及せず、個人修煉の要素を取り込まないという結果になりました。しかし、どう行うかを話しても、どう修めるかを話さないと言うことは、結局のところ、それは理論上の空論であって、常人の問題解決の形式に過ぎず、自分が修煉者である一番肝心なことを忘れてしまったことになります。このような法に則っていない振る舞いは実は党文化の現れでした。
法に対する理解における深刻な過ちによって、旧勢力に隙に乗じられ、私の修煉状態は悪くなる一方でした。自我の心、安逸心、怠ける心等の人心はますます強くなり、煉功も三日坊主で、体の状態も冴えず、時には、人心が浮かんできても、それを制御することができませんでした。自分の修煉に問題が起きたとなんとなく分かっていましたが、しかし、その原因が見つからず、周りの同修からおかしいと指摘されても、自我が強すぎるため、その指摘を受け止められず、逆に同修に問題があるのではないかと勘違いしてしまいました。最近、恩師は何度もいろんな方法で私に啓示してくださいましたが、私はとうとう悟ることができませんでした。
私達5人の同修は同じ監獄に閉じこめられ、皆は自分の修煉に問題があると分かっていました。私達は一緒に師父の法「身は牢屋に臥すれど傷み哀しむ別れ 正念正行して法在り 静かに思う幾多の執着の事を 人心を片付けば悪は自ずから敗る」[1] を暗唱し、一緒に内に向けて探しました。私達は心を静めて、しっかり内に向けて自分のどこに問題があるかを探さなければならないと分かっていました。恩師は私達が本気で自分を探している心を見られ、瞬間に私に気付かせて下さいました。その瞬間、自分の脳裏に閃きが走り、その一瞬ですべてが分かりました。数え切れないほどの錠が瞬時に開けられたように感じ、体が透き通ったように感じました。その昇華した感覚は言葉では表現できません。恩師に対する感謝の気持ちは言葉では言い表せません。同修に自分の感銘を話すと皆は私のために喜んでくれました。
今回の事を通して、個人修煉と全体の円容は切り離すことのできない、そもそも一体のものであることが分かりました。なぜなら、私達大法弟子は大法の中の一粒子で、全体の中の一員ですから、全体の協力が必要とされる時、私達は自我を放下し、全体の必要に応じて協力して行い、同時に、協力する中で自分の不足を探し、自分を修めていかなければならないからです。例えば、今度、私達の地域では邪悪の迫害に遭った時、私達は協力して、同修を救出し、発正念をし、別の空間の邪悪を解体するようにしました。それは様々な方面に於いてしっかり協力し、自我を放下し、他人のために考えたからできた結果でした。私の個人的な体得では、自我には二つの側面があると思います。一つは「偽りの自我」で、もう一つは「真の自我」です。「偽りの自我」を消去して初めて「真の自我」が現れ、先天的な本性が現れて来るのです。私達は常人の中で形成した様々な執着、様々な観念、私のための様々な心、それはすべて「真の自我」ではなく、「偽りの自我」です。この「偽りの自我」を修め落としてはじめて「真の自我」が現れ、はじめて法に於いて昇華することが出来るのです。例えば私達は同修と交流する時、同修と協力して何かを進める時、自分が悟ったものや、自分がやってきたことを放下できるかどうか、他人のために考え、全体のために考えることができるかどうか、それは自我を放下できるかどうかの試練です。
この過程で、もう一つの問題に気づきました。法を正す修煉はすでに終盤となり、多くの衆生はすでに真相を知り、多くの警官も真相を知り、そして三退もしました。しかし、私達の地域ではやはり大規模な迫害が起こりました。真相を知った警官はその迫害に加担したくなくても、そうせざるを得ません。なぜなら、それは上司の命令だからです。迫害が発生すれば、私達はまず迫害された同修の修煉には何か問題があるのではないかと思いがちですが、こう考えても間違ってはいません。しかし、他の角度から、全体的な角度から、私達に問題はないかと考えなければなりません。
真相を知った警官がまた悪事に加担してしまうのは、旧勢力が作った大法を迫害するシステムから逃れられないからです。しかし、この大法を迫害するシステムを打破するには、もっと多くの人々に真相を知ってもらい、未来に向かわせようとするには、私達一人一人の大法弟子が自我を放下し、全体に溶け込み、大法弟子が協力すべきすべてのプロジェクトをしっかり行い、自分を全体の一粒子として無私無我にしなければならないと思いました。
以上は自分の少しの認識です。不適切な所があれば、ご叱正をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「哀しむ別れ」