文/台湾の大法弟子
【明慧日本2017年4月17日】明慧ネットの交流文章を読んで、自分は最近の修煉状態が良くない原因が安逸心(あんいつしん・何もせずにぶらぶら暮らすこと)の働きだと分かりました。内に向けて探し、この数年の修煉の中で毎回しばらくすると、「疲れた、休みたい、少し休ませていただきます」という考えが浮かび上がりました。
このように、次から次へとこの声にしたがって自分に「少しなら、休んでも大丈夫です」と言い、この声を排除しませんでした。徐々に早朝の煉功の目覚まし時計の音が聞こえても、押した後また寝るようになりました。目が覚めたら、自分に「夜に、補います」と言いわけしました。煉功は「3日出漁すれば、2日網を干す」ような状態になり、徐々に自身の空間場がある物質に支配されていきました。
ときには、頭がはっきりしている時、どこに問題があるのかと思い、思惟の中の声が「あなたは三つのことを皆やっているから、問題がない」と言い、他方では、「それは安逸心の働きだ」と浮かびました。自分の正と負の考えは網引きの競技をしているようでした。考え続けていると、ついに頭が疲れてきてもういいという考えが現れ、「懶」(ものぐさ・ぶしょう、怠ける)という文字も現れてきました。「懶」の字を分解すると、負の考えに束縛されている心です。私は焦り辛くて、自分が正しくない状態の中にあると分かり、この状態から抜け出したいと思いました。
落ち着いて内に向けて探し、修煉しはじめの頃のことを思い出しました。当時は、毎日学法し、煉功し、メールで真相を伝え、真面目に三つのことをしっかり行っていました。しかし、今家庭の環境が楽になり、自分を緩めてしまいました。携わった大法のプロジェクトが多くなるにつれて、時間がきつくなり、毎日の学法と煉功が基準に達することができなくなりました。この安逸心は多くの当然な言い訳を押し付けてきました。私はこれが自分を騙し人をも騙す心で、とてもずる賢い心であることに最近気づきました。
再び内に向けて探すと、さらに自分の精進が「向上」のためにあり、師父が『轉法輪』の中でおっしゃった「上士、道を聞けば、勤めて之を行なう」[1]ような状態にあるのではないと分かりました。
冬の朝の煉功に自分は温かい布団の中から起きられず、寒さと苦労が嫌いでした。内に向けて細かく探すと、自分の考えが「偽の我」に制御され、「真の我」で主導していませんでした。師父がおっしゃるには、「主意識がしっかりせず、思想業に左右されたまま悪いことをする人もいますが、そうなるとその人はもうおしまいで、堕ちてしまいます。しかしほとんどの人は強い主観思想(主意識)を持って、それを排除し、それに対抗することができます。そうであれば、その人は済度できる人です。善悪の分別がつき、つまり悟性の良い人ですので、わたしの法身が手助けをして、そのような思想業の大部分を消去してあげるのです。このようなケースは比較的多く見られますが、しかしひとたび思想業が現われてきた時に、それに打ち勝つことができるかどうかは、本人次第です。動揺しない人なら、業を消すことができます」[2]
師父の法は私を驚かせ、分かるようになり、弟子は再び師父にご苦労をおかけしたと感じました。今回内に向けて探している中、頭の中に浮かび上がったのは小さい頃の記憶でした。小学生のとき、私はいつも朝6時に起き、家の前の掃除を手伝いました。隣のおばさんはいつも私が良い子だと褒めてくれました。最初、私はなぜこれを思い出したのか分かりませんでした。考えてみると、当時毎朝早く起きて掃除する原動力は隣のおばさんの褒め言葉を聞きたくて、人からの好評をもらいたいための有為でした。私の朝の煉功は師父のおっしゃった「煉功する心があればとて、功を得る心無し」[2]でなく、裏に名を求める心が隠れていて、人に良くできていることを認めてもらうためでした。自分は師父と大法に申し訳ないと思いました。師父がおっしゃるには、「修めることは自身のことで、代われる人はなく、師となる人は表面ではただ、その法理を教えるだけです。 心を修め、欲を断ち、智慧を明らかにして惑わされないようにするのは、自らに対して責任を負うことです。興味のために来る者は、心が必ずしっかりしていないのであって、世俗に入れば、間違いなくその根本を忘れてしまいます。 その念を固く守らなければ、一生、何も得られないのです。いつまた機縁が結ばれるか分からず、難しいことです!」[3]
なんと自分は人からの褒め言葉を聞いてやる気を出して、褒め言葉を聞かなければやる気が無くなっていたのでしょうか。毎回しばらく経つとこの状態が現れました。今回の交流を通して、私は自分の安逸心の裏には名を求める心が隠れているのを見つけました。そして常人ののんびりとした楽な過ごし方を懐かしんでいます。この安逸心は衆生を救い済度する使命を遅らせ、貴重な時間を浪費させました。師父は「もし、皆さんがいまだに法を正す弟子とはどのようなものか、はっきり認識できないとすれば、今の魔難の中から抜け出せず、この世で安逸をむさぼる心に動かされ、邪な悟りに陥ってしまいます。それらの落ちてしまった人に対して、師父はずっと心を痛めています。多くはこの心に動かされて、だめになった人なのです」[4]
この一段法を引用し、時々刻々に自分に警告を与え、この貴重な修煉環境を大切にし、大法に与えられた智慧を大切にし、三つのことをしっかりやり、師父の慈悲なる苦心な済度に背いてはならず、同修と励まし合って、最後の正法の道を弛(たゆ)むことなく、これからもしっかりと歩もうと思います!!
以上、最近の修煉の中で、内に向けて探した体験です。妥当でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「堅定」
[4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「法を正す時期の大法弟子」