文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年5月1日】私は若い男性大法弟子で、現在大学に通っています。法を正す修煉を始めてから1年以上経ちました。今日交流したい問題は色欲心の邪悪さについてです。
修煉の中で、色欲に対する執着は私にとってずっと大きな妨害でした。無理やり抑制しても効果は微々たるもので、法に基づいて真に色欲の本質と危害を認識することができませんでした。最近になって、やっと比較的大きな突破があり、師父は私のためにたくさんの良くないものを取り除いてくださいました。私は自分の体験に基づき、自分の悟りを述べたいと思います。
修煉する前、色欲が身体に満ちていた私ですが、法輪大法に救われました。家族にも大法弟子がいたため、私は幼い頃から大法の真相を知っていました。毎回病気に苦しんでいた時、絶えず「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい、師父は素晴らしい」と念じていました。恐らく大法に対する敬う心があったから、汚くて道徳の低い私も修佛の機縁に恵まれたのかもしれません。
大学時代、一度偶然の機会に私は寝る前に、師父の済南での説法録音を聞きました。聴くうちに眠ってしまいました。当時、不眠症だった私は師父の説法がとても素晴らしいと感じ、毎日聴くようになりました。少しずつ法輪大法の真・善・忍の博大な法理が、私を惹きつけました。私は知らないうちに大法の新しい学習者になりました。自分で五式の動作を学び、夜になると寝室で座禅しました。煉功するうちに、身体の状態はだんだん改善され、気血がよくなり、胃病も再発することなく、頭痛もなくなりました。現在、常に1日に5、6時間しか寝ていないのですが、非常に元気です。
しかし、当時私は大法をただ一種のホビー(趣味、または大人向けのおもちゃ)としていたようで、「常に心性を修め」[1]ることができず、色欲を含むたくさんの執着心をもっていて、三つのこととは何かをしらず、さらにやることもせず、法に対する理解は浅はかで、真の大法弟子ではありませんでした。
このような状態が1年間続きました。昨年初め、師父からの悟らせの下、私は偶然に明慧ネットに掲載されている交流文章『使命を果たせなかった深い後悔』を読みました。同修の書いた、正法の使命を果たせなかったために直面した暗くて、悲惨な結末を読んで、私は非常に驚きました! 重い棒喝の下、私は師父の新しい経文を大量に読みはじめ、毎日明慧ネットの文章を閲覧し、毎日『轉法輪』を一講読み、少しずつ正法修煉の内涵が本当に分かるようになりました。大法弟子は三つのことをしっかり行うべきだということも知り、正法修煉の大きな流れに身を投じ、自分を向上させ、三つのことを行いました。ですから、私は本当に修煉してから実際1年ちょっとしか経っていません。
修煉のなかで、私はたくさんの執着心を少しずつ淡々とみられるようになりました。しかし、色欲の心の現れは非常に強大で、非常に苦しいものでした。夢のなかで色欲の関は一度も乗り越えたことがなく、非常にがっかりしました。それから、私は学法と発正念を堅持し、常に明慧ネットの交流文章を読みました。すると、最近色欲を修めることにおいて、少し大きな突破がありました。欲の念が生じたら、適時にそれを抑制することができ、自分を正すことができました。内心が非常に清らかで、明るく、正々堂々としていると感じました。ここで、自分が色欲の心を修めた体験を、同修のみなさんと交流したいと思います。私と似ていることで悩んでいる同修に参考になることを願っています。
「貪」は色欲が邪悪である原因
現在の社会で、もしあなたがランダム(無作為)に常人に「人は自分の色欲を制御すべきです」と伝えると、あなたは怒鳴りつけられるかもしれません。常人のウェブサイトにも色欲を修めることについて書いた人がいますが、その文章の下には書いた人を嘲笑し、罵るメッセージがたくさん書き込まれています。なぜこうなったのでしょうか。現在の常人は、色欲を人間の本性であると思い、誰かがもし欲を抑制することを提唱したら、その人を反人間、反人類だと言うでしょう。修煉者として、法の中から、私たちはもちろんこれは是非を転倒しているとわかりますが、多くの人は修煉の初期にみな、どうして高次元では色欲をそれほど重くみているか理解できません。まるで色欲はご飯を食べ、水を飲み、息をすることと同じなのに、どうしてそれを邪悪だというのでしょうか。そして、多くの修煉者はこの問題をよく理解できていないため、ただ単純に意志の力に頼り、内心の欲を圧制しようと努力し、法理からどうしてこのようにすべきかを理解できず、法に基いて法を認識することができません。こうして、色欲の心をずっと根本から取り除くことができず、草刈りをしても根が残っているように、少しでも注意を怠るとそれがまた生じてきます。私は現在の次元で、色欲の本質は「貪」(ドン・むさぼること)であると認識しました。「貪」の背後には、旧宇宙の自分のためという「私」の属性があります。
常人の中で、人々は名利に淡泊な人を品行方正な人と称します。なぜなら彼は個人の利益を放下することができ、物に対して貪の念が生じないからです。もしあるものに対して過度に追求すれば、その人は品行方正な人でなくなり、悪人になります。例えば、過度にお金を追求する人はお金のため、六親を知らずになります。過度に名を追求する人は有名になるため、人を傷つけたり、中傷したりして、どんな手段をも使います。同様な道理で、もし過度に異性の美色を追求すれば、その人は悪人になります。なぜなら、これは貪の念であり、彼は最終的にそれを得るために良くないことをするかもしれません。しかし、彼が占有しようとするものは、普通のお金と財物、物質的な利益ではなく、人の身体、美貌といわゆる気質です。
法のなかで私たちは知っています。人の一生のなかで、得と失はすべて按排されています。将来だれがあなたと夫婦になって、子供を産み、育てるか、これは運命の中で定められたことです。人に色欲があるから、人類は夫婦生活のなかで、子孫を残すことができます。しかし、もし自分の妻(或いは夫)以外の人に対して色欲が生じたら、それがほんの少しだとしても、すべて間違っています! なぜなら、彼女(彼)はあなたに属さず、彼女(彼)の美色と優しさ、徳行など、なにもかもあなたに属さないからです。しかし、あなたは彼女(彼)を占有しようとします! もし、あなたが自分を抑制せず、色欲の心の発展を放縦すれば、この心は少しずつ魔に変わり、あなたはますます自分の手に入れられないものを得ようと執着します。しかし、それはあなたのものではなく、あなたはどうやって手に入れられるでしょうか。「盗む」か、ひいては「奪う」しかなく、しかし、それは普通の金銭や財産などの利益ではなく、悪いことをしようとする考え方は察知しにくいのです。その現れはその人に対する妄想をたくましくしていることで、彼女(彼)の前で、しなを作り、彼女(彼)に接近しようとし、潜在意識のなかで彼(彼女)を誘惑しようとします。もし相手が従わないと、更に激しい手段をとるかもしれません。「盗み」が失敗したら、明らかに「奪う」かもしれません。師父は私たちに「変えられる方法は一つあります。 それは悪事ばかりをして、悪いことをしつくすことです。 それによって人生を変えることができますが、その人を待っているのは徹底的な壊滅です」[2]と説かれました。ですから、これはなぜこの色魔が乱舞する社会において、覗き見、わいせつ、セクハラ、近親相姦、強姦、強姦殺害が次々と発生する原因になります。その原因を調べると、他ならず、最初人間が色欲の心を適時に抑制することができず、その発展を放縦したため、少しずつそれが貪に変わり、この貪が大きくなり制御できなくなるとどんな悪事をやりかねません。多くの人は色欲の厳重性を認識できず、とても素晴らしいと思い、自分は悪いことをしていない、また自分の品格はよいと思いますが、実際彼らはすでに堕落の淵へ向かう道を歩んでいます。もし更に自分を制御しなければ、最終的に人に害を与えると同時に自分をも害します。
常人の中で、若者はこんな話をしています。深く愛すればするほど、恨みも深くなる、と。実際、人間は情に対して過度に執着し、相手が自分に満足できなくなった時、相手のもっている(美貌、気質など)を手に入れることができない時、恨みと嫉妬が生じ、愛から恨みへと変わり、陰湿で変異した心理を形成します。特に、ある人が誰かを片思いする時、相手が他人と仲良くなる、あるいは自分を相手にしてくれない、自分に興味がないのをみると、このような恨みが最も生じやすく、常人はそれを嫉妬と言います。このような恨みは、貪が誘発した嫉妬であり、他人と自分の心に刺された鋭い刃物です。師父は「常人の社会において、人々は奪い合ったり、騙し合ったり、個人のわずかな利益のために人を傷つけたりしますが、こういった心は全部捨てなければなりません。特に、今ここで功を学んでいる人は、これらの心をなおさら捨てなければなりません」[2]と説かれました。修煉者として、修煉の中、私たちはまず常人の中 でよい人にならなければならず、私心を放下し、ますます良くなり、それからやっと少しずつ限りなく慈悲で、衆生に対して責任を取れる神の基準に昇華できます。
法に基いて法を認識し、色欲を見出してこれを取り除く
師父は私たちに笑い話を教えてくださったことがあります。「冗談ですが、七情六欲をすべて抱えた常人をそのまま上へ昇らせ、成佛させることは、皆さん考えてください、可能でしょうか? その人が大菩薩を見て、なんと綺麗だと邪念が生じるかも知れません」[2]。以前学法する時、ずっと師父の説かれた「邪念」の内涵がよく理解できず、大菩薩がきれいだと思うことはそれほど悪くないと思いました。修煉するにつれ、当時の私の境地はあまりにも低かったと認識できました。本当にそのような人が色心を持って、天国へ昇ったら、本当に宇宙大戦を引き起こすことでしょう。このような人は圓満成就できるでしょうか。正果を得ることも問題になるでしょう。師父はまた「色欲に執着するならば、悪い人にほかならず、口で経文を念じていても、品のない目で互いを見ていて、道から遠くかけ離れているのですが、これは邪悪な常人です」[3]と説かれました。色欲の心が誘発する危害は本当に軽視してはいけません。
多くの大法弟子にとって、名利を淡々とみることは比較的に実現し易いことですが、色欲の心を淡々とみることはなかなかできません。その一つの重要な原因は、色欲は非常に魅力的だからです。色欲はあなたにそれはあなたの生命の一部分と感じさせ、その邪悪と危害を意識できないようにさせます。実際、色欲と名、利は同じです。同様に貪の念であり、執着心です。修煉者がもし理性的に色欲の危害を本当に認識できれば、自分を真の煉功者とみなして、この心を捨てれば、色欲を淡々とみることは大変実現し易くなります。まさに師父の説かれたように「悪いと知りながらやめることができない人がいます。それは正しい考えに導かれていないために、簡単にはやめられません。一人の修煉者として、あなたは今日から、それを執着心として捨ててみてください。やめられるかどうかを試してみてください」[2]です。色欲の心に対して、私たちはひたすら蛮力で抑制してはいけません(もちろんこのようにすべきではないということではなく、これは修煉の意志力の体現でもあります)。修煉するには心性を向上させなければなりません。私たちは真に法に基いて師父のお話を理解し、どうしてこのようにすべきか、およびこのようにしないことにより、もたらされる危害を理解できてこそ、高次元へ向上し、正念が生じて、真に色欲の心を取り除くことができます。
色欲の心を取り除くことは、私にとって本当に心をえぐり、骨身にこたえる過程でした。師父から何回かの悟らせがあり、常人の中でのトラブルに巻き込まれて、絶えず失敗しながら、やっといまの境地に至りました。実際、現在私の色欲の心はまだ完全に根絶されておらず、いま交流する内容は、実際いまの私の次元での限りある理解です。多くの同修がさらに高く、さらに深い次元と角度から色欲の心の危害を述べました。
ここで、私と同様に色欲の関で失敗を繰り返している同修にアドバイスします。多く学法し、法に基いて法を理解し、常に発正念をして自分をきれいにし、かつ明慧ネットの修煉体験、色欲を拒んで福を得た物語を多く読んでください。同時に、誘惑から遠く離れ、礼にあらざれば視るなかれ、礼にあらざれば聴くなかれにしてください。心性を向上させ、法を正す時期の大法弟子の栄光なる使命を引き受けましょう。私達が共に精進し、色欲を修め、法を正す最後の時期に、速く基準に達し、衆生を救い済度し、師父と共に家に帰られることを願ってやみません!!
次元に非常に限りがあり、正しくないところについては、同修のご指摘を願います。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「真に修める」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修める者の忌 」