文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年6月19日】私が修煉を始めてて間もなく大法への迫害が始まりました。迫害される前の修煉の環境をもう一度感じたいと今でも思っています。その時は、毎朝公園で煉功をする人がたくさんいましたし、皆大法の素晴らしさを知っていました。今は、環境が異なりましたが、それでも、修煉者の心は変わってはいません。
私たちのような90年代以降に生まれた若者たちは、ちょうど様々なものが溢れかえっている常人社会で生活しており、多様な娯楽が人々の道徳観を下へと引きずり下ろしていきます。身近にいる同年代の若者たちは皆それぞれ圧力を抱えていますが、私だけは何の心配もせず、悩みも全くなく、常に身軽で、修煉することの幸せを感じています。大法を修煉する人は本当に幸せ者です。修煉すればするほど今日の社会における是非を見破ることができ、以前気づかなかった執着心を見つけ出すこともできます。そして、大法の法理を悟ることで、さらなる素晴らしさを感じる事ができます。
一、心を修める
小さい頃から周りの大人たちに溺愛されながら育てられてきたので、自分の気持ちに合わないことがあるとすぐに怒り、短気でした。母はとても穏やかで優しい人ですが、娘の私は短気だと親戚や友人たちは皆知っています。修煉してから母の性格がますます良くなっていきましたが、私の性格はなかなか直らず、相変わらず何かあるとすぐに怒っていました。最近、師父の1999年の『ニュージーランド法会での説法』を読むと、師父は学習者の質問に対して「皆さんに教えますが、人が怒っている時、紛れもなくそれは魔性です。なぜでしょうか? 『私はいいことをするために、人を向上させようと、怒ったのです。人に仕事を真面目にさせるために怒ったのです』と思う人もいるかもしれません。これも魔性です。換言すれば、悪を持って悪を治そうとしています。あなたは魔性を利用して他人に良いことをさせようとしているのです。もしあなたは善の心をもって対処すれば、善の心からしっかりすべきだと勧めれば、その人はきっ と感動させられ、あなたに強制的にされたからではなく、本心からきちんと物事を扱うと思います。そうすると、物事もより良く扱われると思います。ですから、修煉の過程で皆さんは徐々にかんしゃくの癖を取り除くべきです。怒らないということは非常に難しいと皆さんは思いますが、本当は難しくないのです」[1]と説かれました。
それからは、自分の機嫌に背くようなことが起こると、師父のこの説法を頭の中で繰り返しています。「怒らないということは非常に難しいと皆さんは思いますが、本当は難しくないのです」[1]。怒らないのは難しいことではありません。普段から常人の中に嵌(はま)り込んではいけないと覚えておけば、トラブルや問題に遭った時は冷静に考えることができます。他人に指摘された時も素直に謝り、怒鳴られた時は、黙って聞き入れます。時々、我慢できずについ言い返してしまうことはありましたが、今では、言い返す寸前に我慢することができ、自分が修煉者であることを思い出すことが出来るようになりました。
常人や見知らない人と接する時は優しい心を持ち、気長に対応することができますが、家族の中で同じような問題やトラブルに遭うと大体の場合は辛抱強く接することができません。例えば、両親にスマートフォンについて尋ねられると、非常に簡単な操作を説明するだけなのに、私はつい短気になり、「画面に載っている言葉の通りよ。これに沿ってタッチすればいいの。壊れたりしないから」と思わず大声を出してしまいます。けれども、もし、相手が他人なら、私は怒ったりしないでしょう。このことは私たちの世代に多く存在し、常人でも同じです。家族には悪い態度で接してしまうのです。けれども、これは常人の表れです。修煉者である私はこのような態度をとってはいけません。悟った後は徐々に直していき、同時に内に向けて自分を探すようにしています。そして、自分には伝統文化が欠如しているという問題にも気づきました。年配の方や目上の方を尊重するという教養がなく、これもまた、党文化の一種なのです。また、自己中心的で、他人の事で自分の時間を費やしたくないことにも気づきました。師父は誰に対しても優しく接するようにと説かれましたので、私はこの点を重視すべきです。
自分が短気なのはインターネットにつながるパソコンやスマートフォンをいつも見ていることが原因であることに気づきました。また、これらのものに執着しているということでもあるのです。パソコンやスマートフォンを長時間弄(いじ)っていると性格が悪くなるので、このままではいけないと思い、『洪吟』を暗唱することにしました。そして、これらに執着するのは自分に常人の観念が強く、自分の趣味に合っているから弄りたくなり、さらに深く掘り下げると、全ては情からくるものと気づきました。これらは本当の私ではありません。情は三界の中の理であり、「私」でもあります。修煉者はさらに高い基準で自らを律し、慈悲の心を持たなければなりません。中年や年配の多くの人はパソコンの操作を知らないので、辛抱強く教えなければなりません。時々他人から度が過ぎた依頼を寄せられると、言葉に表せられない辛い気持ちになります。自分はプレッシャーや圧力に耐えたくなく、責任を負いたくないからではないかもしれません。大法弟子が法を実証することは全て自分の責任の範囲内の事なのです。このことを母に伝えると、母も少しずつ変わり始めました。何かあるとすぐに私に聞くことなく、まず自分でやるようになり、以前よりも自信が増したように見えます。
一時期、常人の話を非常に嫌う時がありました。彼女たちの話に参加したくないし、耳に入ることもいやでした。最近、学法を通じてあることを悟りました。常人社会での修煉環境を大切にし、何事に遭っても動じない心を持たなければならないということです。些細なことでも自分を精進させる為ではないかと考えれば、修煉する機会をつかめるのです。師父はこのように説かれました。「私たちは世間での修煉を大切にし、法理に基づいて断えず精進すべきです。常人の中の一切は修煉者にとって何の魅力もありません。それは修煉者の境地は常人のものよりレベルが高いからです。この世にいたくなく、つまらないと思うこのような状態が出現するのです。それは修煉にとってとても貴重な時機であり、向上する機会であると認識ができれば、大法の修煉を重く捉えれば、こういった気持ちがなくなります」[1]
二、法を実証する
私は叔母が開いているブティックで働いています。はじめのころ、叔母も大法を習っていましたが、迫害が始まってからは徐々に反対の道に進み、お店で顧客に真相を伝えることさえ反対してきたのです。私も彼女に隠れて真相を伝え、このことが叔母にばれるのを内心びくびくするようになりました。ある日、顧客に真相を伝えていましたが、反応があまり良くなく、このことが叔母に知られてしまい、従姉(叔母の娘)に怒られたのです。またある日、従姉の友人に神韻のDVDをあげました。これももしかすると私の執着心を取り除くためなのか、従姉にこのことを知られて、「私の友人に手を出さないで」とまた怒られてしまいました。とても悲しい気持ちになりましたが、これもまた自分がしっかりしていないことが原因で、衆生を救うのは本当に難しいと思いました。その後、家で印刷している真相資料や週刊誌などを事前に一通り読むようにし、真相を伝える知識を補うことに決めました。
真相を伝えて相手が素直に聞き入れてくれた例は他にもあります。ある顧客は、実家に大法を修煉する人がいて、その人は毎日何もせず、娘にも面倒ばかりをかけているので、この顧客も大法に対して悪い印象を持っていました。大法の教え通りに行動しなければ、その人は修煉者ではありません。また、彼に自分の体験を交じえて実際の状況を教えました。私自身は大法を修煉してから身体的に大きな変化が現れ、十数年も飲み続けてきた薬も捨て病も治り、それ以来、風邪を引いたこともありません。また、性格も明るくなり、穏やかな気持ちで毎日を過ごしています。彼は私の話を最初から最後まで真面目に聞き、全てを理解しました。それ以来私に対してとても礼儀正しく接しています。またある日、従姉の友人に三退を勧めました。ちょうど従姉がいなかったので相手と20分ほど話して、真相を伝え、三退もさせることができました。しかし、常人には何度も真相を伝えなければならないということに気づきました。多くの事は時間の経過と何度も伝えることで、相手は漸く覚えてくれるのです。
また、別の人ですが昨年交通事故に遭い、手術をして幸運にも生き延びることができました。彼とは長時間話し合い、真相を伝えようと三退の話に移したところ、以前誰かに勧められてすでに三退したと教えてくれました。大法が素晴らしいことも、真・善・忍の法理にも賛成してくれたので、手術が成功したのは三退をして得られた福報ではないか、とすぐに気づいたのです。法輪大法が素晴らしいということを必ず覚えるようにと伝えましたが、その時は明白に確信を持ってはっきりと伝えたのではなく、軽く触れただけでした。
小さい頃、街で出会った人に真相を伝えている時、恐怖心など全くなく、とても大胆に言いたいことを口にしていました。しかしながら、大人になると世間体を気にする心理が強くなったのです。きっと真面目に法を勉強していないことが原因で、法を信じる程度にも差が出てきたからでしょう。私は一体何を怖がっているのでしょうか。言われるのが怖いのでしょうか。それとも旧勢力が怖いのでしょうか。全ては執着心です。幼いころはこれらの心理がありませんでした。
真相を伝えている時は必ず正念を持たなければなりません。救えるかどうかなどを考えないことです。叔母一家は皆深く毒害されていますが、以前、思わず水道の水を飲んでしまい(中国の水道水はそのまま飲んではいけない)、お腹が痛くないかと従姉に聞かれて、大丈夫と答えたところ、叔母が突然、「さすが法輪功の修煉者だね」と言ったのです。その後、チャンスを見つけては従姉に以前テレビで見たある9歳の女の子がリウマチにかかり、今はもう20歳過ぎになったが、全身の関節が壊死して、全く動かなくなったことや、もし自分が法輪大法を修煉していなければ、今のように健康になれなかったことなどを話しました。この話は彼女の負の観念に触れることなく、却って従姉は「そうね、あなたが知っていればいいことだわ。あちこちに言いふらさないでね」と頷いたのです。これからも続けて粘り強く真相を伝えなければなりませんが、今回の事で大きく励まされました。
普段常人と接している時も厳しく自分を律しなければ、効果も反応も良くありません。大きなことは自分を厳しく律し、しっかりとできますが、些細なことはつい気が抜けてしまいます。ある日、口座に知らないお金が300元ほど入金されたので、通帳を印刷した所、近頃は顧客からの入金が無いことが分かりました。普段、顧客から入金が入った場合、当日中に従姉に振り込みますが、今回はどう調べてもこの300元に関する記録がどこにもありませんでした。ちょうど新しいラジオの機器と照明台と本を何冊か買いたいと思っていたので、この300元でちょうどこれらの物を買うことができます。もしかすると、私が買い物をしたいことに気づいて誰かがお金をくれるはずもなく、知らぬ間に入ってきたこのお金に決して触れてはいけません。銀行にこのお金の出所を調べてもらったところ、先月の10日にこのお金が記録されているのがようやく見つかりました。すぐにこのお金を従姉に振り込むと、「金銭面においては、私たちは絶対にあなたを信じているわ」と言われました。大法を修煉しなければ、私はきっとこのように徹底的にお金の出所を調べなかったでしょう。少しでも間違った方向に念が働けば、きっと間違った道に進んでいたに違いありません。普段なら振り込んだお金はすぐに反映されるのに、今回は1カ月も遅れていたのは、まさに私の心性を試す試練だったのでしょう。
また、ある日、叔母とご飯を食べている時、私は叔母に真相を聞き入れて救われるように、現在の法を正す形勢を伝えました。彼女はため息をついただけで何も言いませんでした。その後、母は昔の同修を呼び戻すための冊子を叔母に渡しました。何日か経ち、叔母が見たかどうかわからないので、怖がっていないで彼女に聞かなければならないと思いましたが、「私たちはもう戻れないわ。一度修煉の道に導いてくれた法輪大法には感謝している」という答えが返ってきたのです。これを聞いた私はとても悲しくなりました。この一度きりのチャンスを見逃した彼女が残念で仕方がありません。修煉はまさにできるものとできないものを区別するもので、固い信念を持ってこそ今日まで歩んでこられたのです。
今、私たち家族は最も幸せです。親戚たちからも幸せ者だと言われています。定年退職した両親に年金が入り、少し前に田舎の大きな実家も改装して、いくつかの一軒家に分かれ、新しい建物のようです。
修煉したての頃は、まるですっ飛んで行くかのようにやる気に満ちていました。大小様々な試練を乗り越えなければなりませんが、それでも、やる気に満ちていました。法を正す道のりがここまで来て、師父が説かれた「初心を忘れずに修煉していけば、必ず正果を得る」[2]ということの重要さを実感し、私自身もようやく「実修」という二文字の意味を理解し、修煉しようという心も前より純粋になりました。慈悲なる師父の済度に感謝いたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『ニュージーランド法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作: 『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」