文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年6月27日】幾つもの交流文章で提起されていますが、長期の病業に妨害されている同修がいて、漠然とどこに間違いがあったのかが分からず、甚だしきは、惜しくもこの世を去ってしまいました。交流文章を読んでからとても身にしみて感じました。私も「咳」の病業による妨害が早3年になります。最近深く内に向けて探して発見したのは、「病業」に向けた発正念は純粋なものではなく、そこに入り混じったものは「病」「心配」[恐れ」(死んでしまうことを恐れている)の執着心でした。当然、これは私が妨害された根本的な原因と必ずしも言えるものではなく、ただ言えるのは、病業に対する執着の発見です。今から書き出して同修と切磋琢磨して、互いに励まし、共に精進していきましょう。
一、思想の中で隠された「病」と「死」の観念
2年前、咳の症状が出てきて、呼吸も順調に出来ませんでした。それから肺臓の中に鶏鳴の声がする感じがあって、ある時は息切れもありました。1人の古い弟子として、当然のことながら修煉者には「病が無い」と知っています。仮に「病がある」としても、残った黒い気を外に出しているか、あるいは旧勢力が黒い手と卑しい鬼を使って妨害し、迫害しているのです。ですから発正念して、それらを否定するだけのことです。私は学法を堅持して、内に向けて探し、発正念してそれらを否定し、また力の及ぶ限り幾つかの真相を伝える事もしました。しかし「病業」はずっと存在していて、以前に比べてさらにひどくなったようで、私は戸惑い、気がふさいでしまいました。常人が誠実に「法輪大法は素晴らしい」と言えば病気が取り除かれるのに、私はなぜ駄目なのでしょうか?
深く内に向けて探す事を経て、ついに発見しました。以前の小さな「病業」の関ならまだ良いのですが、今頃「大きな病業」が来て、なおかつ長期に発正念しても効果が無く、心の中はいくらかうろたえて、「喘息(ぜんそく)にかかったのではないか」「死んでしまうかもしれない」の意識が全て出てきました。この時私はまだ分かっておらず、とっくに取り除いたものと思っていましたが、思想の中で、ずっと「病」が存在していて、「心配」「死ぬかもしれない」の観念がありました。特に私の母親がまだこの世にいる時、喘息がとてもひどく、姉も数年前に喘息の症状が出て、姉が言うにはおそらく年を取ってから母のようになり苦しむのだろうと言いました。母と姉の「喘息」は私の心の中で、かすかに暗い影を落としました。今日、この全てを掘り起こしました。
二、「病」「心配」「死んでしまうかも」の執着を意識していなかった
これらの「病」の観念は私の心の中で何年も存在していましたが、この執着を意識できていませんでした。長期にそれを持っており、自分でも気づかず、重視せず、さらには法に照らしてそれらを取り除こうともしていなくて、まるでこれは正常な心理状態であると思っており、この観念の作用の下で「喘息」に対して発正念しましたが、考えれば分かる事ですが、この種の正念はすでに純粋ではなく、正しくなく、また威力もありません。
何年も経つ中、それを取り除きたくなかったのではなくて、それが取り除くべき執着であることに気づいていなかったのです。1人の古い弟子として、まるで冗談のようですが、悟性がこんなにも悪かったのは事実です。一方面で悟性が悪い事を表明し、もう一方面ではっきり言わなければならないのは、人間の迷いの世界の中で、悟ることは本当に非常に難しく、どうりで神仙たちが動物は済度しても人は済度しないと言ったのかが分かるように、人を済度することの難度はとても大きいのです。
実際、「病」の執着以外にも、まだ他の執着もあります。例えば、私は好んで「冗談を言う」習慣があって、修煉してからも全くそれを取り除くべきものだと思ってもいませんでした。なぜなら冗談を言うと皆さんが笑うので、私はとても良いと感じて、問題が無いだろうと思っていました。最近になってやっとこれは「悪い習慣」であると感じました。自分にユーモアがあって面白いことを自己顕示していたのです。また「口を修める」事が出来ていませんでした。自覚が遅すぎました。
師父は説かれたことがありますが、一部の修煉者は他の人から言われたくない時、このような記述がありました。「間違いがあると、すぐ言い訳をし、顔色を一つ変えずに嘘をついています。ひいては間違うと、言い訳をして客観的な原因を探しています」[1]。私が思うには、「嘘をつく」同修は私と同じように全くこれが執着だと意識出来ていないのだと思います。ある交流文章で、作者の同修は病業の妨害が6年も続き、全身の筋肉が萎縮し、生活は完全に自分では出来なくなりました。当地で彼は毎日学法して、内に向けて探し、煉功し、発正念し、真相を伝えていましたが、身体はまだ駄目でした。最近になってやっと発見したのは、彼は多年来ずっと「旧勢力は私を迫害するのではないか」と怖がっていました! ここから分かるように、内に向けて探し、正確にその執着を見つける事はなんと難しいのでしょう! 修煉に後どれ程の時間が残されているのでしょうか?
さらに長期の病業に妨害されている多くの同修達、内心の深い所に、まだ自覚できていない「病」や「死ぬかも」の観念があるのではないでしょうか。私にはそれがあるのかもしれません。なぜなら長年修煉している古い同修は、残念なことに病院に行くことを選択したからです。生きる欲望を求める背景には、おそらく他でもない「怖い」「心配」「死ぬかもしれない」の執着があるからです。たとえ病院に行かない事を堅持したとしても、内心にこれらの執着があることが分かっていなければ、病業の関を乗り越えることが難しいのです。これらの執着は、発正念を手伝っている他の同修も知るすべがなく、カギとなる同修本人も認識できず、ズルズルと何年経っても、また、死に至っても悟りません。
三、適時に発見することと、それらを重視しない執着をつかみ出す
どのように迷いの中で、それらの分かっていても意識していない執着を探すのでしょうか? 同修達は当然のことながら皆多く学法する事を知っていて、法は迷いを破ることが出来ると知っています。私自身は学法が少なくなった事は無いのですが、なぜ私の「病」「心配」「死ぬかもしれない」の迷いを破れずにいたのでしょうか? ひいては二十数年も迷っていたのでしょうか? 私が感じるのは、おそらく学法の時に心の中に入っておらず、毎日経文を一段読んでは、読み終わったら本を閉じて他の事をしに行きます。まるで小坊主が経を読むとき口で読んでいても心に無いようです! 師父は説かれました。「師父の説法が終わったら、あなたは考えるべきであり、大法弟子は考えるべきです」[2]。法を心の中に学び入れれば、自分の執着が見つかり、あるいは法から悟りを得ることが出来、それで適時に以前の重視していない執着を発見できると思いました!!
私は今のところ、時々刻々と自分の心が「動じる」事をとても注意しています! ただ少しでも動じれば、それが喜びや喜びではないにもかかわらず、例えば「得意げ」「憤(いきどお)り恨み」「憂慮」「恐れ」「色情」等等、必ず執着があるのです。ですからすぐにこの執着心が一体何なのかを発見し、すぐにそれをつかみ出し、同時に自分に問います! 神聖な佛と菩薩が私のようなはずがありますか。続けて自分の言行を正さなければいけません。私は決心して力いっぱい努力しようと思いました。常人の中のどんな事でも心を動かさず、どんな疾病や、災難や、金銭を得る事や、身内が難に遭ったり等等、全てに心を動かさず、つまりそれを考えず、情緒上でどんな反応もないようにして、心を静止している水のように静かに、静かにさせたいと思いました!
私が思うには心が静止している水のように静かになれたら、発正念も純粋になり、力量も伴うようになり、それはまるで平静なテーブルの上のほこりを払うかのようであり、どんな人の情緒にも影響される事はありません。同時に、低次元の邪悪のものが私たちを妨害し、からかう時、私たちが心静かに静止している水の如くになれば、盤石のように少しの揺るぎも無ければ、常人の低級な反応もなく(例えば少しの息切れでも怖くなる。母親が病気になったら憂い心配する。子供が良い成績を取れば誇らしげになる、等等。これらは全て佛の所にない低劣な現れで、低い次元の邪悪が私たちの問題のある所を見えない所でからかっている)、邪悪も面白くないと感じれば離れて行きます。実際は邪悪も私たちに届かなくなるので、その妨害も消えて無くなってしまうのです。
他にも、私たちは現在、まだ佛まで成佛(じょうぶつ・ 煩悩を解脱し,悟りを開いて仏となること)していないものの、佛に向かっているので、思想の中にあれらの負の面の物があってはならず、疾病も含む様々な執着があってはいけません。佛は能力がとても大きく、一念で宇宙が形成されます。もし佛が私たちと同じように「病」だと思ったなら、彼の世界はおそらく病の世界になり、滅茶苦茶なものになることでしょう。
以上は個人が悟ったもので、正解とは限りません。ただ同修たちと共に病業の妨害から抜け出すように、さらに、師父のおっしゃった三つのことを、もっと、もっと良く行えるようにするために書き出してみました。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『各地での説法十』「マンハッタン説法」
[2] 李洪志師父の著作: 『各地での説法十一』「大法弟子とは何か」