【明慧日本2017年7月18日】ある日、プロジェクトの協調問題で同修と口論になり、「あなたは頑固すぎます。もう少し融通を効かせたらどうですか?」と言われました。同修に言われたので、必ず私の心性の向上に必要な要素がその言葉の中にあるので、同修の注意を無駄にしてはならないと思い、内に向かって探しました。
修煉前はかんしゃく持ちで頑固な性格でした。一度納得して決めたことは最後までやり抜き、たとえ壁にぶつかっても後悔せず、反省しないため、たくさんの痛い思いをしました。修煉後は心持ちが変わり、多少のことや言われたよくない言葉を気にせず、同修との関係は比較的良いので、自分の頑固なところは感じていないし、たまに指摘されてもあまり自覚しませんでした。
中国語の漢字「犟」(ジャン、頑固の意味)は大きく二つに分けられ、上は「強」、下は「牛」で構成されています。まずこの「強」の部分は私の強い口調に顕著に現れています。口調が強い原因は他人からみて私は弁才があり、喋り方が上手だからです。そのため、口を修めることがあまりできておらず、たくさん喋ると漏れが生じやすくなります。適当に喋ったことは他人を傷付けてしまうかもしれません。相手は心の中でとてもつらく感じていても表に出さないかもしれず、表に不満を出してしまったら、旧勢力が修煉者の仲を悪くさせるという罠にはまってしまいます。
中国には「人は己を知る賢さを持つことが大切である」という諺がありますが、私はまさにその逆のタイプです。自分の欠点に気づかない理由は二つあります。一つは自惚れやすいところにあり、もう一つは自分の法理に対する認識が他人より高いという思い込みにあります。もっと深く掘り下げて原因を探せば、やはり党文化の現れなのです。横柄で威圧的な人は他人に譲ったりせず、よく言い争います。『九評』の中に書かれた、中国共産党独自の九大遺伝子「邪悪、欺瞞、煽動、闘争、略奪、無頼、間諜、殲滅、制御」のうち、少なくとも私は三つ持っていて、どれも「威圧」「横柄」の特徴に関連しています。
まず一つ目は「闘争」です。横柄な人は闘争心と嫉妬心を持っていて、他人と論争することがよくあり、相手が負けると得意になり、顕示心や歓喜心が生じてきます。「ほら見ろ、やはり負けた。やはり私の方が正しかった」などと思ったりします。しかし、もし自分よりもっと威圧的な人に負けてしまった場合、嫉妬心が出てきて、不平不満や恨む心が相次いで現れてきます。「この人が言ったことは正しくないから聞きたくない」と思ったりします。このような人には、わかりやすい特徴があります。それはよく師父が説かれた法理を利用して相手を説教し、もし相手が言い返せなくなると自分が正しいと思い、さらに相手を指摘したり責めたりします。他人を指摘するときは雄弁になり、逆に人に指摘されるときは聞き流して話題を変え、甚だしきに至っては相手を無視します。自分が相手を困らせたにも関わらず相手を責めたりします。
二つ目は「略奪」です。威圧的な人のもう一つ特徴として、他人と会話するときによく相手の話の腰を折って自分の話を優先的に主張します。相手の話がまだ終わっていないときや、また相手が話したことが正しくないとき、あるいは相手の話が自分より下手だと思った場合、相手の話の腰を折ってぺらぺらと喋り出します。他の場面においてもこの特徴が見られます。例えば、出会った珍しいことは他人より先に公表したがり、他人が自分より先に言い出すとつまらないと感じます。自分が良いことをした場合は他人に教えたがり、すぐ自慢し、しかも出会った人に全て教え、同じことを飽きずに何回も自慢します。
私は同修が交差点で赤信号を無視して道路を横断したため、走っていた車が急停車し、同修が道路を渡るのを待っていた瞬間を目撃しました。その同修はこのことを「時間を大切にする」と自慢しました。またある同修は修煉前に常人会社の肩書を自慢し、名利の執着心にしがみ付いて、良いことをすると自分の功績として言いふらします。集団学法のときはいわゆる主役の席を争い、自分がえらい、地位が高いと自慢します。明るいところ、出入りしやすい席や座り心地の良い席を年配の同修に譲りません。このような同修はもしかしてわずかなお金や利益に関しても、他人と奪い合いをするかもしれません。「奪う」ということは修煉者にとってなんと怖いことでしょう!
三つ目は「制御」です。相手と闘い、相手の勢いを抑えてから、自分の話を押し付け、自分中心に話の流れを制御し、相手に話すタイミングを与えず、あるいは自分が話したいことを全て言ってから他の人に喋らせます。これは「制御」の顕著な現れです。もし他人に話の腰を折られてしまった場合、すぐ不機嫌になり、無理やり自分の話を続けようとします。党文化の「共産党幹部優先」、「一方的な虚言を押し付け、国民に言論の自由を与えない」という悪い習性は余すことなく現れています。
次は「犟」の下の「牛」の字についてです。私は時々「牛の角先に潜る」「1」ことをしています。他人と意見がわかれたとき、或いは人に指摘されたとき、受け入れず、自分を守り、自分の意見を主張し、自分の意見を押し通そうとしています。もっと深く掘り下げてうちへ探してみると、やはり私心、人に指摘されたくない心が働いたのです。いつも自分が正しいと思い込み、「私が間違うわけがない」、「私が間違えることは絶対ありえない」などと心の中で思っています。たとえ本当に間違えたと自覚があっても、それを認めようとせず、謝らないのです。たとえ口では謝っても、内心ではやはり認めようとせず、心は純粋ではありませんでした。
師父は説法の中で「いつも自分が正しいと強調する人がおり、あなたが正しいのであって、間違っていませんが、それはどういう意味があるのでしょうか? 法に対する認識が高まったのでしょうか?」[2]と説かれ、また「 強 辯 に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐にて執着無ければ知見出づ 」[3]と教えて下さいました。
よく考えてみると、この「頑固」はとても恐ろしい執着心であり、真剣に取り除かなければならないとつくづく思いました。この場を借りて、注意してくれた同修に感謝を申しあげます。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作: 『各地での説法十』「マンハッタン説法」
[3] 李洪志師父の著作: 『洪吟三』「辯少しに」