【明慧日本2017年8月11日】湖南省郴州市の法輪功学習者・許郴生さん(47歳女性)は、2012年5月16日午前、市公安局北湖支局人民西路派出所の警官に街で身柄を拘束された。許さんは鉄のイスに座らされ、12時間取り調べられた結果、死亡した。息子の楊許俊さんは母の冤罪を訴え続け、4年の年月を経てようやく死亡賠償金31万9千600元(およそ511万円)、扶養費5千400元(およそ8万6千円)を支給された。30万元は命や家族の悲しみを補うことはできない。しかしながら、中国共産党は法律を知りながらも法律を犯し、平然と殺人を犯したことを訴えたことは、民衆自らが自分の手で権利を守り始めたことの証となるだろう。
生前の元気な頃の許郴生さん |
許郴生さんの遺体 |
取り調べを受けて、死亡する
許郴生さんは1965年4月生まれで、市のタバコ工場の従業員だった。法輪功を学んでいるとの理由で何度も610弁公室、国家安全局、公安などに拘禁され、家財を押収された。ひどい迫害の中、許さんはやむなく離婚した。
監視カメラの記録によると、2012年5月16日午前10時、許さんは法輪功の資料を持ち、市国慶南路東健帝景ホテル近くの店舗に配布していた。突然、市公安局北湖支局の人民西路派出所の警官ら数人はパトカーでやって来て、許さんをパトカーに押し込んで去って行った。
派出所で許さんは、鉄のイスに縛られたまま座らされ取り調べられた。12時間水も食事も与えられず、トイレも行かせなかった。夜10時、北湖支局は許さんを10日間拘束する処罰を下した。夜10時39分、警官3人は許さんをパトカーに押し込んだ。夜11時15分、許さんは市第一人民病院に送られたが、心肺停止と診断され、死亡していると宣告された。
家族は当然の権利である公正な検死もできず
この案件の2日後の18日、公安局は許さんの元夫に知らせた。20日、許さんの息子の大学生の楊許俊さんは母が死亡した情報を聞きつけ、学校から家に飛んで帰った。家族や友人はみな許さんの突然の死に驚いた。許さんの遺体は目も完全に閉じておらず、半分開いたままで顔はかなり変形していた。
警官側は極力この案件の事件性を隠し、責任を逃れた。21日、市政治法律委員会と公安局、610弁公室などの人員はいわゆる家族協調会を合わせて11回も開いたが、結果は出なかった。
親族は公正な検死を求めたが、市政治法律委員会、610弁公室、公安局、検察院、裁判所に阻止された。弁護士は法曹機関の違法行為を指摘したが、広州市に差し戻された。家族は監察医を雇うつもりだったが、関係者に阻止された。さらに許さんの兄に仕事を解雇すると脅迫した。家族は仕方がなく、火葬の同意書にサインしないことにした。
あまりにも突然な死に周囲の住民も怒りを覚える
5月19日、ある人は『湖南都市新聞』などの新聞社、テレビ局に電話をかけ、第三者の立場で公正に事件を報道してほしいと依頼した。しかし、内容が法輪功関連であったため取材する勇気がなく、取材できても報道する勇気がないと告げられた。
メディアは中国共産党のプレッシャーで報道しなかったが、許さんのあまりにも突然な死に家族は大きなショックを受け、周囲の多くの住民も怒りを覚えた。
長い間、市街には「殺人犯を厳罰に」(下記の写真)、「公正な検死を呼びかける」などの貼り紙が現れ、多くの人は真相が書かれたチラシやショートメール、デコメールを受け取った。
貼り紙に気づいた人がまた他の人を呼んで見に行き、人は相次いで集まって来た。ある人は嘆きながらこう言った。「ああ、もうとんでもない世の中になってしまった」。ある人は「警官は手先だ、匪賊だ」と批判した。ある人は「煉功するだけで、どうして死ぬまで迫害してしまうのですか。信仰は自由なはずです。共産党は生きた人を殺して邪悪になった」と言った。
ある店のオーナーは見に来る人が多すぎて、商売の妨げを心配して、剥がそうとしたところ、すぐに「どうして剥がすの!」と阻止された。オーナーは急いで「誤解しないでください。私はただほかの場所に貼り変えたいだけです」と言った。
ある特殊部隊の警官は貼り紙を剥がそうとすると、ある人に「それを剥がさないでください」と阻止された。警官は「殴って死んだのではない、こんなデマを広げないで」と言ったが、その人は「殴って死んだことがデマなら、剥がさず正々堂々と人々に見せて、住民に判断してもらうべきです」と言った。その警官は「お前、派出所に連れて行くぞ」と言い寄った。その人も「派出所の方はお宅ですか、派出所に連れて行き、私も同じように殴り殺すつもりですか、そんなこと絶対に許せません。あなたにも親や兄弟がいるでしょうに。もしご家族が同じような目に遭ったら、あなたはどうしますか」と問い詰めた。その警官は頭を下げて立ち去った。
長年冤罪を訴え続け、やっと賠償金をもらう
許さんの遺体はずっと市の斎場に置かれたままである。
2014年8月26日、息子の楊さんは地元公安局北湖支局に国家賠償を申請した。同年10月24日、当局に賠償しないと宣告された。楊さんは不服を申し出て、北湖区裁判所に対して訴訟を起こした。楊さんは母が連行される前はとても健康で元気だったのに、取り調べられた後、すぐに死んでしまったことは、被告には逃れられない責任があると主張した。
昨年12月19日、北湖区裁判所は仲裁し、合意に達し、次の合意書を下達した。「国からの賠償金31万9千600元、扶養費5千400元が支給される。5日以内に、許さんの遺体は火葬される」
付属書類
1、許さんは生前に何度も迫害された
2000年、許さんは政府に法輪功の無実を伝えたとの理由で、市公安局に身柄を拘束、拘禁され、罰金を科された。2001年、許さんは北湖区共産党学校の思想改造施設に送られ、思想改造を受けた。
2005年3月、許さんの職場までも610弁公室に協力し、許さんを思想改造施設に送ろうとした。許さんは迫害から逃れるため、放浪生活を余儀なくされた。職場はその機会に許さんを停職処分にした。その後、許さんは法輪功の資料を配った時、不当に連行され、15日間拘束された。解放された翌日、610弁公室は再び拘置所に許さんを連行するようにと命じ、ネットで指名手配した。
2008年12月24日午後、許さんは蘇仙区公安局支局で身分証明証を更新した時に身柄を拘束され、留置場で数ヵ月拘禁されてから、労働教養処分に処せられた。白馬壟労働教養所に受け入れを拒否され、やっと家に帰された。
2011年6月11日、許さんは広州から列車に乗って郴州に戻った。身分証明証を持っていなかったため、駅員に調べられた時、鞄の中に法輪功の書籍1冊と法輪功迫害の真相資料が数枚あるという理由で長沙市に連行され、長沙鉄道公安警官の取り調べを受けた。数日後、許さんの自宅の家財が押収された。許さんは長沙鉄道公安局の拘置所に拘禁されている期間、何度も脅迫され、虐待された。許さんは断食で迫害に抗議したため、だんだんと痩せて衰弱していった。家に戻されるまで合計49日間断食した。警官は許さんを白馬壟労働教養所に送ったが、健康検査が不合格のため、受け入れを拒否された。