文/日本の大法弟子
【明慧日本2017年8月20日】日本での関西地区の4回目のパレードの出発前、団長は「今度のパレードはある繁華街を通過します。そこは人が多いので、皆さんはしっかり演奏してください」と伝えました。商店街に入ると、私にはこの商店街が特に長いと見えました。指揮者の同修の歩調は小刻みにゆっくりと進みました。途中で、私はこのような歩調では普段より疲れるので、指揮者にもう少し速く歩いてほしいと思いました。私がこのように考えて指揮者を見ると、指揮者の同修の帽子が汗でびっしょりと濡れていることに気づきました。彼もまたとても苦労しており、真剣に指揮していると分かりました。指揮者の同修の姿を見て、私は慈悲の内涵をより多く理解できました。
私は電話で真相を伝えるプロジェクトに参加しています。メンバーたちは中国人にどのように真相を伝えて、三退を勧めるかについてよく交流しました。一部の成功率が高い同修は交流の中で、慈悲心を持って真相を伝えるとき、人はあなたの話をはじめて受け入れるといつも強調しています。師父は説法の中で慈悲心についてよく言及されていました。今まで、私は師父のおっしゃった慈悲心というものがあまり分からず、善の一つであるかもしれないと思っていました。慈悲心というのは、私の今までの概念の中ではただ一つの単語だと感じており、その内涵はまったく分かっていませんでした。
しかし、今回のパレードの指揮者の同修の行動を見て、私は慈悲とは何かについて少し理解できるようになりました。慈悲には善だけでなく、忍の内涵も含まれています。修煉者には慈悲心があり、人に善を持って付き合うだけではなく、常人には耐えられない苦労を耐え、常人が忍耐できないことも忍耐できます。
パレードの前夜、皆さんが一緒に交流しているとき、団長はある事を話し出しました。今年、香港の7月20日のパレードに参加した同修が、香港で太鼓を借りました。しかし、その太鼓には太鼓を支える下の部分がないため太鼓を肩に掛けると、この人の肩は太鼓の重さで下へ引っ張られ、とても辛くて疲れるのです。しかし、その同修はその太鼓を掛けて、何もなかったように4時間歩きながら演奏しました。それは修煉者の慈悲な心の表れだと思います。心に慈悲を抱いているから、こんな大きな苦に耐えることができたのです。
この慈悲は修めてからできたもので、心性が高ければ高いほど忍耐力が強くなり、慈悲心も大きくなります。これは相互補完です。以前、私は慈悲心がなかなか出ない自分に悩んで、どのように修めればよいか分かりませんでした。今回、私が悟ったことは、実修の中で心性を高め続ければ、生活の中で試練とトラブルに出遭うとき、黙々と忍耐することができ、笑顔で対応できます。そして、慈悲心も少しずつ修め出されるのです。
その後のパレードの中で、私は後どれぐらいの時間で目的地に着くかを考えず、最後まで全力で演奏し続けました。