文/山東省の大法弟子 春梅
【明慧日本2017年8月28日】私は1996年の春に大法の修煉を始めました。法を学ぶ中で慈悲を修め、夫の家族に対する恨みを取り除いた体験を師父に報告し、同修のみなさんと交流しようと思います。法に符合していない部分については、慈悲なるご指摘をお願いします。
一、夫の突然の死
夫は生前、個人で建築工事を請け負っていました。私は家で子供の面倒をみたり、家事をやったり、余った時間に子供と一緒に学法をしたりして、睦まじくて充実した穏やかな日々を送っていました。しかし、2006年のある日、夫が突然事故に巻き込まれて亡くなりました。そしてすべてが変わり、生活は一気にどうにもならない窮地に陥りました。
当時私は30歳を過ぎたばかりでしたが、2人の娘がいました。長女は12歳、次女は5歳でした。私が夫を亡くした悲しみからまだ抜け出していない時、夫の弟と一番上の姉が夫のオフィスに押し入り、すべての勘定明細を奪い去りました。彼らは、これらのお金はすべて張家のものだと言いました。私のことを「彼女は若くて、きれいだし、また男の子もいないから、必ず再婚するだろう。絶対彼女に張家の財産を持ち去らせないようにしないと」と言いました。我が家の家屋証明書も彼らが持っていました。夫の一番上の姉はこの部屋は夫が生前彼女にあげると言ったとも言いました。夫の葬儀から3日後、私が田舎の姑の家に戻り、夫のお墓参りに行った時、姑は私に「子供たちを連れて再婚してください、子供は1人も残さないで、私は1人だけでも面倒を見られないから」と言いました。また私に今後もう戻ってこないでとも言いました。
夫の家族の冷酷さと無情を私は受け入れることができませんでした。これが普段親しく「お姉さん、お姉さん」と呼んでいた小舅なのか。これが親しそうに「妹」と呼んでいた姉なのか。これがいつも「息子の嫁」と呼んでいた姑なのか。「栄えれば取り入り、衰えれば疎遠にする」と言いますが、どうしてこれほど大きな差異があるのでしょうか。夫は在世の時、仕事を多く請負っていて、家族のなかの財神でした。小舅と夫の姉の家族はみな恩恵を受けていました。そして私も夫の家族のなかで高い地位にありましたが、夫がいなくなると、彼らはお金を稼ぐ人がいなくなり、また私が夫の残した財産を持って再婚するだろうと判断していました。夫が亡くなって間もなく私はすぐさま彼らの家族ではなくなり、追い出されました。本当に世間の情は最も頼りにならないものであるということを理解できました。
夫が亡くなった時、私は手元に数百人民元しかありませんでした。結婚してから私は全力で家事をやっており、仕事を持っていませんでした。夫が亡くなると、本当に「人も財産もなくしました」。私と2人の子供はまだ生きていかなければなりません。常人の手段でお金を一部請求しようとしたら、なんと小姑と姉はとっくに工程の甲方と手を結んでいて、一文ももらえませんでした。法律手段を通じて解決しようと、弁護士に尋ねたら、すべての証拠はすべて彼らが奪い去ったから、訴えてもまったく勝てないと答えました。友人もみな私達から遠ざかり、誰も関わろうとせず、彼らからお金を借りることや、彼らに助けを求めたり、彼らに公正な話を言ってもらおうとすることを恐れていました。
ミラレパの修煉物語の中で、ミラレパの父は亡くなった後、巨大な財産を残しましたが、彼の伯父と叔母に巻き上げられました。しかし、誰も残された彼のために話す人はいませんでした。ミラレパの母は自分でお酒を造り、同郷の人達を招待して、彼らに彼女のために自分の家と土地を取り戻そうと思いました。しかし、伯父と叔母は声を揃えて大声で「あなた達になんの財産があるのか。あなたたちの財産はどこにあるのか」と叱りました。伯父は怒って「あなたの父が若い時、私達からたくさんの土地や、金、家畜を借りた、彼が死んだら、もちろんこれらのものは私たちに返すべきだ! あなた達にほかになにか財産があるのか? あなた達の財産は、石一つもないのじゃ!」と言いました。これらは本当に私の当時の境地とあまりにも似通っていました。
私を追い出し、名分が正しく、道理も通るようにして、私の財産を手に入れるために、彼らは私にたくさんのデマを作りました。いろんな流言飛語は一本一本の矢のように私に向かってきて、私は避けて隠れるところがありませんでした。当時本当に天が落ちてきたようで、訴えるところがありませんでした。未成年の子供2人をつれて、如何なる経済源もないなかで、このすべてに直面して、私はほろほろ涙を流し、胸をえぐられるような思いをしました。どうしたらよいのか? 未成年の子供2人はどうやって育てるのか? これからどうやって生活するかもわからず、一旦寝たらそのまま目覚めなければよい、と思いました。自分では直面できないと感じました。自分でもどのくらい涙を流したかわかりません。本当に師父のおっしゃったように「百の苦一斉に降る 其の如何に活くかを看る」[1]でした。
二、学法を通して、苦しい立場から抜け出す
いかに苦しく、悲しくても、師父はいつも私の頭に法を啓示してくださいました。師父と法だけが私を助けてこの苦しい立場と苦しみから抜け出させてくださると思いました。修煉者が遭遇したことに偶然なことはなく、これは私が必ず乗り越えるべき関でした。この点に関して私は非常にはっきりと認識していました。当時、私は大法と師父に頼るしかないと思いました。そして、私は腹を決め、ほかのなにも考えない、ただ学法をしようと決め、夜を日に継いで学法し、法を暗唱し、自分の心を完全に法のなかに溶け込ませました。こうしてしばらくして私はやっと夫を亡くした巨大な苦しみから抜け出し、心は少しずつ穏やかになりました。
同修の助けと励ましの下で、私は涙を拭き、家から出てグループ学法に参加し、同修と一緒に学法しました。同修に協力して、法輪功の資料を配り、真相を伝え、師父の要求される三つのことをしっかり行いました。また需要があったため、家に資料拠点も立ち上げました。この間に、夫の遺物を整理する時、数十万元の工程金額の書かれた勘定書(伝票)が見つかりました。私は泣きました。これは師父が私の心が法に基いているのをご覧になり、私達の生活のために残してくださったとわかっていました。数年来、私は毎年その工程金額の一部を少しずつ請求して、家庭生活を維持し、しかも学法と修煉する時間があり、三つのことをしっかり行うことができました。
師を助けて法を正す大きな流れに身を投じ、大法弟子の全体に溶け込んでから、私は心身とも絶えず変化し、心性が絶えず向上し、少しずつ夫の死に悲しんだり、苦しまなくなり、夫の家族の無情を恨まなくなり、常人のちっぽけな利益を失うことで気をもむことがなくなり、心身をすべて大法のなかに投じた時、法を正す時期の大法弟子としての使命は師を助けて法を正し、衆生を救い済度することであると分かってきました。
我が家の資料拠点はもう3カ月ほどで10年になります。この間、2人の子供は進学し、家庭の支出もますます大きくなり、毎年請求していた工程金額だけでは生活費が不足しました。家庭生活を維持するため、私はバイトをしたこともあります。スーパーで饅頭を蒸したり、家政婦の仕事もやりましたが、修煉と三つのことはずっと揺るぎなくやってきました。師父の保護と、同修の助けの下で、10年間我が家の資料拠点は停止したことはありません。私は毎年1万枚以上の真相DVDを焼き、周囲の同修のために『明慧週間』を印刷し、法輪功の真相電話をかけ、同修に協力し、ほかにも真相を伝える仕事もしています。また同修と一緒に農村へ行き、資料も配りました。近年、我が家もグループ学法の場所となり、週に一度学法しています。毎日充実して、穏やかな日々を送っています。
三、慈悲を修め 悪縁を善解する
絶えず学法するに伴い、少しずつ世間の因縁関係が分かってきました。夫の家族に対する恨みも少しずつなくなりました。時には、特に生活のなかで苦しい立場に陥り、思い通りにならないことに遭遇した時、その心骨を痛めることはよくありますが、なんと言っても少しずつ消去して、放下できています。師父は「修煉するにあたって、具体的なトラブルに対処する時、誰かに辛く当たられたりした場合は、たいてい次の二つの状況が考えられます。一つはおそらく前世にその人に対して何か悪いことをしたのかも知れません。あなたは、『どうしてわたしにこんなひどいことをするのだろう?』と言って心のバランスをくずすかも知れませんが、しかし、あなたはなぜ前世でその人にあんなことをしたのですか? 『あの時のことは知らない。現世は前世と関係ない』とあなたは言うかも知れませんが、そういうわけにはいきません。もう一つは、トラブルの中に業力転化の問題が絡んでいるので、具体的に対処する時、われわれは大らかな態度を保たなければならず、常人と同じようにしてはなりません」[2]とも説かれました。
抑えられないほどの恨みの心が生じる度に、私は心のなかで繰り返して、「あなたは大法弟子だ、常人のようになってはいけない」と言い聞かせました。最初、夫の家族を敵とみなした状態から、師父の法である「自分の敵を愛さなければ圓満成就できない」[3]と、強制的に自分に恨みの心を放下させ、涙を流しながら忍びました。後になると彼らを可哀想な世の人々とみなし、彼らと言い争いをしませんでした。その次は恨みが感謝に変わり、彼らを親族とみなすようになりました。その間には、数えきれないほどの心をえぐり、骨身にこたえる過程もありましたが、なんと言っても私は乗り越えてきました。
時には、もし夫の死による人情の巨大な変化がなければ、夫の家族が造ってくれた魔難がなければ、私はまだ表に出られず、自分の誓約を実現する法を正す時期の大法弟子になることができず、足を組んで、ひまわりの種を食べ、お茶を飲み、家事を終えたら法を読んだりして、ゆったりした、穏やかな日々を送っていたでしょう。師父は「相手のことを本当に怒ってはいけません。それだけでなく、心の中で相手に対して本当に感謝しなければなりません」[2]と説かれました。
四、夫の家族が変わる
自分の心性が絶えず向上するにつれて、夫の家族に対する恨みも絶えず取り除かれていきました。私は「私は大法弟子だ、彼らが私に良くしなくても、私は彼らに対して良くしなければならない。夫がいないから、私は彼の代わりに親孝行をする義務がある。私は自分の行動で大法のすばらしさを実証しよう。しかも今生で家族になったのは縁のある人ということで、私は彼らを救い済度したい」と思いました。そして、舅と姑がどんな態度であれ、彼らの誕生日や、祝日になると私は彼らに会いに行き、お土産を持っていきました。子供たちが休みになると、彼女らにお爺さんとお婆さんのほうに行かせました。
「佛光が普く照らし、礼儀が圓明となる」[4]ように、恨みがなくなると善の心、慈悲の心が生じてきました。少しずつ彼らも変わりました。姑は「あなた、帰ってくるのは良いが、もうお土産は買わないで、あなたの生活はきついだろうから」と言いました。舅は病気が深刻な時、私を呼んで「あなたは、2人の子供を育てて容易いことではなかった。あなたのこの家は私がまだ生きているうちに売るよ」と言いました。舅は10万元で売り、一文もとらずそのまま私にくれました。実際この家については、彼らはとっくに私にわたさないことに決めていたのです。
小姑と姉も変わりました。彼らは私達がいま住んでいる家の家屋証明証を私に返してくれました。長女が大学に通う時、小舅は彼女にノートパソコンを買ってくれました。今年長女が結婚する時、彼らは走りまわり、まるでなんのトラブルも恩讐もなかったように走り回りました。
娘が結婚する時、同修はみな無私に助けてくださいました。感動的で穏やかな場面をみて、彼らは非常に驚きました。彼らには想像すらできなかったことです。数日間接触する中で同修は姉に三退を勧めました。姉は爽やかに同意しました。小舅も大法に対して非常に正面的な認識を持つようになりました。彼は「兄嫁は兄がいないこの数年間、幸いに大法を学んだから、ここまで歩んで来られた」と人に言いました。
一度世間話をしている時、姉は敬服の眼差しで私をみながら、「あなたは変わりましたね、以前はたくさんの誤解がありました」と言いました。彼女の表情から、私の変化に対して非常に驚いていることが読み取れました。私も予想もしていなかったことでした。私は「姉さん、過去のことはもう過ぎ去ったから、考えないようにしましょう。今日私達が一緒にいることで、以前より更に親しく感じています。あなたも知っておられるように私は大法を学んでいます。師父は大法弟子に心より人に対してやさしく対応し、トラブルに遭遇したら自分を探すように要求されています。以前はすべて私がよくできていませんでした」と言いました。また一度、舅が亡くなった時、葬儀後、私たちが一緒にいた時、彼女は私に「小さい妹(夫の弟の嫁)もあなたのように度胸があればよいのに」と言いました。
目の前の信じられないような変化を目にして、私は感無量でした。「修は己にありて、功は師にあり」[2]といわれたように、師父は私の心性が向上したので、夫の家族とのトラブルを解決してくださいました。私は心より師父と大法のご恩に感謝します。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[3] 李洪志師父の著作:『カナダ法会での説法』
[4] 李洪志師父の著作:『法輪功』「第一章 概論」