文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年11月13日】私は以下の二つの事を経験してから、ようやくあることを実感しました。それは、どんな情況に置かれていても、修煉するには内に向けて探し、自分を修めるしかないのです。
日常生活の中で、私は常に不満を抱いていました。特に夫との関係において、私は常に彼の良くないところに目がいってしまい、彼の話を耳障りのように感じて、彼のレベルが低いと思って軽蔑してしまうのです。また、彼が利己的であること、私のことを気にかけず、大切に思ってくれないこと、そして、わめき叫ぶように話しかけてきたり、たとえ良い話でも言い方がぞんざいであることを怨んでいました。私は心の中で「大法を修煉していなければ、あなたとは絶対に離婚してやる!」と思っていました。数年来、2人はずっとこの状態でした。
時々、自分のどこかが間違っているのではとも思っていました。
ある日、以下の師父の説法を読みました。「魔難がやってくるとき、本性の一面から認識することができず、完全に人間の一面から理解しているため、魔はこれを利用して尽きることのない妨害と破壊を行ない、学習者は長期にわたり魔難に陥っています」[1]
その時になって、私はやっと「私の神の一面はどこに行ったのか?」と、ある程度の気づきができて、そこで、「背後にある魔を滅するように!」と真剣に発正念を始めました。
それに、私はいつも他人を変えようとして、自分をよく修めようとせず、これは修煉と言えるでしょうか? 私は慈悲心を持って彼に接するべきです! そこで、私はもっと夫のことを気にかけるようにしてけちをつけず、彼を押し出すのではなく、至る所で彼のために考えるようにしました。私たちはどんな縁で結ばれたか分かりませんが、縁が結ばれた以上、彼を救わなければならず、彼に大法と大法弟子に対して業を造らせてはいけないと思いました。私の変化を感じ取った彼は次第に優しくなり、関心を持ってくれるようになりました。
30度を超える特に暑いある日、「今日は温度が高すぎるので……」と私が言うと、彼はすぐに「今日は私が1人で山に行って来るので、あなたは家で休んでいて」と言ってくれました。私は感動の涙を流しました。これは結婚以来、初めてのことです!
「修煉者は永遠に自らを修めるしかないのです。人心のわずかな変化も、すなわち向上であり、神々には皆それが見えるのです」[2]
私たちの学法グループには1人の年配の同修がいます。彼女は学法にはすごく励んでいますが、会話すればいつも他人を押さえつけてしまいます。誰もが彼女の不足を指摘する勇気がありませんでした。他の同修を見下している彼女は、確かに三つのことをそこそこよく行なっています。
なぜか、彼女はいつも私の前でいかにご主人に良くしてもらっているかを顕示したがり、お金は自由に使えるとか、おいしいものは真っ先に食べさせてくれるとか、四季の服はよく買ってくれるとか、いかに気にかけられケアされていて、農作業も一切しなくてよいことを自慢するのです。まるで自分は他人よりよく修めているから福があるように言うのです。
この類いの話を聞く度に私はこう考えました。「それはあなたが享受と安逸を貪っている証拠よ」
ある日、彼女は病業の最中にご主人にいかにかわいがられ、手を握られて離そうとせず、彼女が逝くなら自分もついて逝くなどと自慢話を始めました……。
私はすぐに「それは色欲の心よ。こんな歳になってもまともなことを考えず、色欲の心を取り除かなければ正果を得られない!」と思いました。
とにかく、私は常に法を持って彼女を評価し、彼女を軽視しました。学法の時、私は一瞬こう思いました。「彼女は、なぜいつも私にこのようなことを言うのか? 私にはまだどんな心があるのだろうか? 自分を見てみよう」。内に向けて探した途端、私はびっくりしました。「これは嫉妬心ではないか!」。師父は『轉法輪』の中でこのようにおっしゃっています。「他人に良いことがあったら、その人のために喜ぶどころか、自分の心のバランスがとれなくなります」[3] これは修煉において絶対にあってはならないことです。また、師父はこうもおっしゃっています。「ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[3]
私は嫉妬心を滅し、そう考えるのは私ではないと自分に言い聞かせ、後天的に形成された観念と他人を見下す心を滅するように発正念をしました。また、「同修の素晴らしいところに目を向けるべきだ。字がまったく読めなかった彼女は高齢にもかかわらず、どれほどの苦労を重ねて法をすらすら読めるようになったのか。本当に敬服すべきだ! それに、彼女は一日も欠かさずにグループ学法に参加し、三つのことも行なっている。不足があっても、彼女はまだ修めているではないか。彼女の不足が見えたのは、私にもそのような不足があるからだ。彼女が私の前でそんな話をしたがるのも、私のそれらの人心を取り除かせるためだ」とも思いました。
私たちは本当に法を持って自分の一思一念を判断すべきだと実感しました。
ある日、朝食を用意している最中に、私は突然めまいを感じ、これは私ではないと思ったのですが、火をつけようとしゃがんだ瞬間に倒れました。気が付いてからも眩暈がひどいので、私は目を閉じたまま手探りで奥の部屋に戻りました。「これを認めません! 旧勢力による一切の按排を徹底的に取り除く。師父の按排でなければ何も認めない!」と思いながら、私はずっと発正念の口訣を念じました。私はうつ伏せの状態でベッドに横たわり、頭をベッドから乗り出した途端に吐き始めました。吐いたのは全部水で、2~3分ほどでお盆一つほどの水を吐いたのです。私は目を閉じたままこう思いました。「これは仮相だ。絶対に認めない!」。しばらくすると、私は吐かなくなりました。
私はずっと発正念を続けました。夫は自分で食事を用意し、食べ終わると出かけていきました。私は身体を起こすことができるように心から師父にお願いをしました。その後、私は壁にもたれて座り、掌を立てて20分ほど発正念をしました。1時間も経たないうちに、私は回復しました。
この病業の仮相も私自身を修めさせるために現れたのです。私は見つけた私心、特に他人を見下す心と嫉妬心を必ず取り除き、旧勢力に隙に乗じる暇を与えず、三つのことをきちんと行ない、より多くの衆生を救い、正法の進展について行くことができるよう頑張りたいと思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
[2] 李洪志師父の経文:『ヨーロッパ法会への祝辞』
[3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』