文/甘粛省の大法弟子
【明慧日本2017年12月25日】
尊敬する師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
私が従事している職業は弁護士です。
中国では弁護士の身分があれば訴訟を代表できるのですが、訴えることのできる人間は2種類に分かれ、一つは司法試験に合格した弁護士で、弁護士事務所を開業して業務を行っています。もう一つは「司法関係者」と呼ばれるもので、試験は2000年にあったのですが、それが中国司法部門での最後の司法関係者免許状です。それは法律服務所で仕事をするのですが、庶民も法曹関係の職員も司法関係者を弁護士と呼んでいます。そして、私が持っているのも司法関係者免許状です。
法輪大法を修煉して以来、大法の基準を以って自分を律し、職場においても、職場の電話で私用電話をかけず、勝手に案件を扱って代理手数料を勝手に受け取らず、代理手数料と交通費以外の費用を当事者から受け取らず、当事者が裁判員にごちそうをしたり、物を贈ったりするよう一切要求しませんでした。代理業務の委託を受ける契約を交わした後、その案件がどんなに難しくても、当事者がどんなに扱いにくくても、心を尽くして最後までしっかりと行いました。このようにして、私が請け負う案件は、いつも最初は非常に手を焼いているように見え、紆余曲折しても最後には順調にいきました。当事者が敗訴しても、私に対する態度に恨みはなく、理解し、多くが中国共産党の政権に対して失望しました。
案件を処理する際に、自分の専門知識を手際よく運用して庶民の権益を守り、法輪大法の法理によりいつでも自分を律し、「真・善・忍」を実践する者として、多くの案件を処理する際の規範としました。また、法輪大法の法理により、いつも神伝文化の理念に沿って自分の一言一行を導き、心の奥底には堅固にして破壊不可能な一念「法輪大法は素晴らしい」があります。いつも雲が晴れ、太陽が現れる神聖な光景を目にし、自ら体験しこの目で見て、「法轮大法好真念万劫即变(法輪大法は素晴らしいという真念は永遠となる)」[1](訳注:『洪吟四』を翻訳者が翻訳)の殊勝さと神聖さを証明しました。この14年間におけるこのような神聖な光景は本当に数えきれないほど多く、一言では言い尽くせません。以下にいくつかの事例をあげてみます。
2005年11月、農村からのある出稼ぎ労働者が私に会いに来て、1年前にある職場でアルバイトをしていた時、就労中に事故が発生し、職場は病院の治療費を負担したが10万元以上の医療費がかかったため、その後の医療費用を継続して支払うことを拒絶したばかりでなく、職場の宿泊所からも追い払われた、と言いました。私に訴訟を起こしてほしいと希望し、いくらお金がかかってもいい、ということでした。当時、危険な代理として手数料を受け取り、最初は1000元の交通費だけでしたが、訴訟に勝った時は、返済を迫って戻ってきた金額の30%を手数料として受け取ることにしました。すると、この出稼ぎ労働者は以外にも異議なく同意したので、代理業務の委託の契約にサインしました。しかしその後、考えてみると、返済を迫るのは医薬費であり、30%を受け取るのは多すぎると思い直し、私の方から新たな契約にサインし、15%を受け取るように減額しました。もし大法を修めていなければ、このように行うことは出来なかったでしょう。
そして、この案件に関する証拠を、この出稼ぎ労働者は提供することが出来ず、証拠がなければ訴訟を起こすことは出来ませんでした。この出稼ぎ労働者とその職場の間の労働関係に関する証拠を探すために、毎日証拠を探しに出かけ、調査できる部門を探し、まるまる1ヵ月間探し回り、ついにこの出稼ぎ労働者とその職場間の労働関係の証拠を見つけ出しました。その間に起こったトラブルについて、どのように対応してよいのかわからなかった時、あるいは、ドキドキが底なしの状態の時、自分のその時の真実の気持ちを持ち歩いているノートに書き出しました。書き終わると、大法の法理で毎回露呈してくる異なった執着心、それは、焦る心、結果を求める心、恐れる心などを放下しました。そして、師父が説かれた「静にして思わざれば」[2]と「做して求めざれば」[2]の法理のように行うよう努力をしました。さらに、私が案件を受けた時、労働災害が起きてから12カ月目で、その月はその案件を訴える時効の最後の月でした。労務関係を確認しなければならないばかりか、仲裁委員会に行って労働仲裁を申請しなければならず、時間が追い付かず、時効を過ぎてしまい、この案件は敗訴しました。
もし大法を修煉する前にこのような手を焼く案件に遭っていたら、夜も眠れず、食事の味もわからず、心配し、時効が過ぎてしまうのではないかと恐れ、十分な証拠が集まらず、この案件の当事者が面倒をかけに来るのではないかと恐れ、万が一し損じたならば、その結果をいかにしてけりをつければいいのかと恐れたりします。要するに、大法を修める前であれば、どの案件を処理するにしても、ドキドキしながら日々を送ることになるので、心が疲れ果て、体も疲弊していました。
大法を修めた後は、師父のお言葉を聞き、何事にも相手を考慮し、当事者の事情を自分の事情として心を尽くして処理し、結果がどうであろうと、もし本当にし損じたらそれは私の責任であり、それならば自然に責任を抱えるようになり、逃げることはありませんでした。案件を受けた後はただ全力で処理し、いかに証拠を集めるか、案件をどのように動かすかは、当事者にとって良くなるように仲裁するか、あるいは、直接訴訟の上で裁判所が良い判決を下してくれるように努力しました。今回の案件と同じように、法律上は労働災害を認定する道を歩めるのですが、労働災害の認定には採用事業所の協力が必要で、本案件では、採用事業所が皆この出稼ぎ労働者と自身との労働関係を認めず、労働災害を認定することはなおさらです。そのため、労働災害を認定することはハードルが高かったのです。当時、私は省の労働仲裁委員会と市の労働仲裁委員会に行き、最後に本案件の管轄機関が市の労働仲裁委員会であることを確定し、まず、労働関係を確認する申請を提出しました。さらに、申請書に採用事業所が相応する賠償責任を請け負うことを要求することを明記しました。さらに、法に基づき労働災害を認定するよう要求し、申請書の中の仲裁請求は、労働関係を確認すると同時に、労働災害を認定する時効をつぎ足すように申請しました。
この出稼ぎ労働者には給与明細表はなく、身分証明証もなければ外出証もなく、傷を負った時に採用事業所でアルバイトしていたことすら確認できるものは、何一つ持っていませんでした。この出稼ぎ労働者が傷を負った後、入院した三つの病院を探しあてると、主治医と財務室の職員は私の仕事に非常に協力的でした。最初と二つ目の病院では、病例を調査し、財務室がその当時この出稼ぎ労働者が入院した時の入院費の支払いの受取書を探しましたが、採用事業所は現金で払っていたため、小切手は1枚もありませんでした。三つ目の病院では、入院費用の伝票はすべて現金となっていたため、私は本当に失望し、この案件は本当にどうにもならない、と感じました。私が病院の財務室に座り込み、見込みがなくて落ち込んでいた時、帳簿を調べていた財務会計係りがたくさんの手形の中から1枚の手形を探し出し、それは2000元の手形でした。十数万元の医薬費の中で、採用事業所は2000元のたった1枚の手形しか使っておらず、この手形の出現により、この案件は転機を迎えました。労働仲裁委員会の協力の下、私たちは労働関係を確認しました。さらに、労働災害の認定を開始し、もし単純な労働災害であれば、この出稼ぎ労働者は最大で2万元以上の補償を受け取ることができたのです。その後、私たちは訴訟を取り下げ、相手となる職場と仲裁という方式で今回の案件を処理しました。1年間にわたるる苦労を経て、何度も相手となる職場のリーダーと今回の案件について仲裁しましたが、相手となる職場の社長は「あなたのように自分の仕事に敬意を払っているわけではないので、これ以上、彼に何らかの費用を支払うつもりはありません」と言われました。しかしその後、この出稼ぎ労働者は6万元以上の賠償金を受け取りました。
今回の案件を処理した丸1年間の間に、法輪大法の法理により、当事者のためにまじめに考慮し、採用事業所に対しても、相手の立場に身を置いて考慮し「做して求めない」中で、心が平穏なまま案件全体を処理し終わり、その心は落ち着き、穏やかで心地よく感じました。
今回の案件を通じて、この出稼ぎ労働者とその6人の友人を共産党の組織から脱退させました。
2009年、陳情局の宿直室に訪れた3人の年配者の訪問を受け、年配者たちの問題について、辛抱強く法律に基づいて回答しました。1人の年配者が訴状を書いてほしいと要求し、その年配者の状況から、年配者の持っているすべての関係する証拠をひとまとめにして、私の事務所に来るように言いました。というのも、今回の案件はうまく処理できるほど把握していなかったからです。最初に仕事の準備をしっかり行った後、その年配者に法律の援助を申請するよう提案すると、司法局から弁護士が派遣されて、その年配者のために告訴しました。半年後、その年配者が私の事務所に来て「一審が終わり、相手は5千元の賠償金しか払いません」と伝えてきて、不服なので上訴している、と言いました。その年配者は私のところに来るといつも、入り口から中を見て、私がいるかどうかを見て、いればすぐに入ってきて私と話をし、私が事務所を出るまで話しました。そして、私が毎回その年配者に「どんな時でも『法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい』を必ず覚えておいてください」と伝えると、その年配者はうなずきました。
また、深山の前線にいたある退役軍人の息子が、私が住んでいる市で通学しており、クラスメイトに殴られた時、もう少しで殴り殺されるところでした。病院に運ばれ、救急治療室でショック状態が十数分間続き、医者は助かる見込みはないと判断しましたが、その後、幸運にも一命をとりとめました。殴ったクラスメイトは検察庁に公訴され、裁判所に起訴状を提出しました。その時、私は民事賠償の代理人として出廷しました。被告人の家族は裁判官を買収したので、この案件の裁判官は仲裁すら行おうとせず、被告の家族は殴って人を殺しそうになった息子の罪を「お金がない」の一言で済まそうとしました。さらにおかしなことは、被告の家族は被告が精神病である証明を出し、監禁の刑罰から逃れ、判決は減刑され、結局、被告は人を殴った後、始めから終わりまで逮捕されることはありませんでした。これは、かつて深山の前線にいて共産党の為に働き、現在なおも党員である被害者の父親は非常にがっかりしていました。私が真相をはっきり伝えた後、この父親ともう1人の息子はすぐに三退に同意し、さらに『轉法輪』を1冊持っていきました。
珠江の若者が私が住んでいる土地で友人と商売をやろうとしましたが、宿泊していた旅館のオーナーに友人との話を聞かれ、オーナーはその晩に金をだまし取ろうとしました。しかし、計画が報われなかったので、その若者を殴りました。若者は「110」通報しましたが、警官はなかなかやってこず、次の日になってやっと旅館にやって来ました。警官はオーナーと若者を警察署に連れて行きましたが、警官は若者を殴ったオーナーに対して礼を持って遇し、若者を犯人として扱い、脅迫した上に、強制的に若者の身分証を奪いました。若者は警察署を飛び出し、私のところに来ました。ちょうど私が事務所にいたので、身分証を取り返してくれるよう頼んできました。警察署に行き、若者の身分証と、若者を殴ったオーナーの賠償責任を追求し賠償を要求した時、警察署長は「警察署は経費が欠けており、このオーナーは若者に500元の医薬費を支払うが、警察署には1000元支払うと言っている」と言いました。「警察署はこのお金をもらえるのか」と私に聞いてきました。若者を殴ったオーナーが責任を負うことをさらに要求した時、署長は別の警官を私に対応させ「この案件は延期し、このお金がいるかどうかを珠江の若者に聞かなければならない」と伝えてきました。案件の全体の経過を若者に伝えた後、法輪功を知っているかどうかを聞きました。すると若者は、知っている、と言いました。ある年、若者は北京へ行き、法輪功を煉功しているおばの手助けをしたのだと言いました。そして、若者は「法輪大法は素晴らしい、真・善・忍は素晴らしい」を知っており、思いもよらなかったことに、今回もまた法輪功修煉者が若者を助けたため、若者は旧版の『轉法輪』を私に1冊頼み、持ち帰りたいのだ、と言い、さらに三退に同意しました。私は自分が持っていたたった1冊の『轉法輪』を若者に提供しました。私が住んでいる土地を離れた後、この若者は時々私と連絡を取っていましたが、私の携帯電話の番号が変わってからは、若者は私と連絡が取れなくなりました。
西安に住むおばあさんは70歳代で、私のところに来て訴えの代理を頼みに来て、「息子」の扶養が必要だと言ってきました。このおばあさんは高齢のため収入がなく、私が住んでいる土地の司法局で法律援助の手続きを行い、無償の代理訴訟を頼んできました。調査の過程で私が調べていた時、おばあさんが話したことは、文化大革命の時、反革命のために夫に通報されて不当に拘禁され、その時、3人の息子がいて一番下の息子はまだ小さかった、ということでした。夫はおばあさんを通報した後、一方的に離婚し、新妻をめとり、後妻の子供をおばあさんの息子の戸籍としてこの土地に入れました。今に至るまで、後妻の子供が使っているのはこのおばあさんの息子の名前などの個人情報です。息子は実家の農村に送られたために、誰も世話をしなかったので早くにこの世を去りました。このため、おばあさんは今でも恨んでおり、自分の息子の姓名と個人情報を騙(かた)ったこの後妻の息子に扶養費の責任を負うよう要求しました。しかし、後妻の息子を探し当てた時、後妻の息子はおばあさんのことを知らなかったため、扶養費の責任を負うことを拒絶しました。おばあさんの家は西安にあり、私が住んでいる土地で訴えている間は、ずっと旅館に泊まる必要があり、支出がかさむので、しばらくすると、おばあさんは実家に帰りました。
翌年、おばあさんはまた私の職場に会いに来て、3000元持って来て、訴えてくれるように私に頼んできました。法律上から言えば、この訴えは可能ですが、おばあさんにとってその価値はありませんでした。訴えた結果がどのようになるかにかかわらず、おばあさんはただ単に恨みのために、40年にわたる恨みのために訴えるのであり、その恨みはどんどん激しくなっているように見えました。もし私が再び訴えを起こしても、この恨みを消し去ることは難しく、かえってさらに、強烈な恨みによっておばあさん自身を傷つけることになりかねませんでした。その恨みは訴えることによってでは全く解決できず、おばあさんが相手を訴えることを放棄しない限り、その恨みがおばあさんを傷つけかねませんでした。そのため、私はこの案件を代理することはできなかったので、別の人を探して手続するように伝えると同時に、私がおばあさんの案件を代理することは出来ないと伝えました。おばあさんは数日、私が住んでいる土地で過ごした後、家に帰ると私に伝えてきました。訴えを起こさず他の人も探さず、前夫を探して現在自分の息子の個人情報を騙っている後妻の息子に扶養義務を負わせることもしない、と伝えてきました。そして、おばあさんは「前回、お金を持っていなかったにもかかわらず、助けてくれました。今回はお金を持って来たのに、やってくれないのですか。これでは確かに何もできませんから、私はあきらめます」。そこで、法輪功の真相をおばあさんに伝えると、おばあさんは1999年以前に煉功し、「本を読んだことがある」と言うので、私は「家に帰ってもう一度見てみれば、恨みは放下され、今の娘さんときちんと過ごせますよ」と伝えました。私はおばあさんを駅まで送り、おばあさんは列車に乗って帰りました。
修練を始めてから、私が代理をしたすべての案件において、私は当事者に法輪功の真相を伝えました。多くの当事者が法輪功の真相を聞いた後に、何のためらいもなく私を信任し、生命が真相を聞いた後の善良さと平和、そして感激を目にしました。当事者が快く三退できた時は、いつも当事者にきちんと真相を伝えており、三退を勧め案件を行う中で満ち足りて、充実してこの十数年の一分一秒を過ごしました。また、「法輪大法は素晴らしい」の殊勝さと素晴らしさをこの身で感じたことは、言葉ではとても言い表せません。
ありがとうございます、師父!
ありがとうございます、同修の皆さん!
合掌!
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟 四』「對聯」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「道の中」
(明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)