【明慧日本2018年1月19日】河南省項城市元農機局長・呉子祥さんが法輪大法を修煉した後、厳しく自分を律して、汚職など一切せず、逆に人をよく助け、部署内や郷里の人、近隣や同級生の中でも評判がいい好人物である。
昨年9月21日、周口市、項城市の国保大隊(法輪功迫害の実行機関)の警官の一団隊は呉さんの自宅に押し入り、部屋の中を徹底的に探し回り、個人財産をたくさん押収した上、呉さんを連行して留置場に入れた。続いて、呉さんは逮捕状を出され、現在、不当な裁判に直面している。
呉さんが連行されたことが外部に漏れると、多くの住民はこれが理解できず、不平に思った。人々は呉さんのような良い人が被疑者であると想像することができないでいる。
一、末期の肝硬変が完治
呉さんは1952年に項城市城郊卿呉営村の農家に生まれ、兄弟姉妹が7人いる。呉さんは16歳の時に部隊に入り、復員後に項城市に戻り、長い間物資局などの部署で副局長を務めたが、最後に農機局長を務めた。
仕事も順調で、家庭も平和で幸せな呉さんは、不幸にも肝炎を患い、最後に末期の肝硬変になった。両手、両足が無力で、乗用車に乗る時に足が上がらないほど辛かった。1996年にある有名な医師に「余命は大目に見ても3年」と断言された。
絶望しそうな時に、呉さんは法輪功に出会い、明るい未来が見えた。『轉法輪』を読んだ後、人生の本当な意義が分かり、真・善・忍に従って心を修め、身を処し、やがて病気が治り、一番幸せを感じた。
二、迫害
1999年7月、江沢民をはじめとする中国共産党が法輪功への迫害運動を発動した。テレビ、新聞などのメディアは全力を尽くして法輪功を誹謗中傷した結果、多くの法輪功学習者たちは監視され、尾行され、部署に除籍され、酷く殴打され、連行され、拘禁された。局長を務めていた呉さんは強いプレシャーを感じた。高齢の母親を巻き添えにしないように、呉さんは当局の暴政に負け、修煉を放棄した。しかし、呉さんはそれで無事になったわけではなく、同部署のある者が何らかの野望のため、「呉さんが密かに煉功している」と警察に密告した。
2001年冬のある深夜、周口、項城国保大隊の何十人もの警官が突然、呉さんの家に駆けつけ、庭を取り囲み、脚立を使って庭の塀を乗り越え、内側から大門を開けた。
当日、呉さんは不在であった。警官らはまずあらゆる箱やタンスを開け、法輪功の書籍を探した。続いて、呉さんの妻、子供ら、ひいては2歳の孫をも布団の中から引っ張り出して、コートや上着の着用も許さず、家族全員を1列に並ばせた。薄い服しか着ていなかった家族らは皆寒くて、身体が震えていた。ある警官は銃を上げながら、呉さんの妻に呉さんの居場所を脅して聞いた。妻は恐れて、呉さんが地元で高齢の母親の面倒をみていると言った。警官らはすぐに呉さんの地元に行き、呉さんを連行した。
警官らは呉さんをあるホテルに運び、両手を背中に回し、手錠を掛け拷問した。
呉さんは半月以上拘束された。普段あんまり話さない呉さんは、拘束されていた期間中のことを誰にも話さなかった。しかし、解放された呉さんは元気が無く、目に輝きがないことを家族は皆気づいた。
三、修煉に戻って再度連行された
呉さんは連行され、拘束されたが、局長という職位は失っていなかった。しかし、残酷な政治環境を恐れて煉功を諦めたため、肝臓病が再発病した。仕方なく、呉さんは再び修煉に戻った。間もなく、呉さんはまた健康になった。得と失を良く考慮した後、呉さんは局長を辞めた。
2009年、呉さんの88歳の母親は胆道結石のため入院した。呉さんと妹は終日母親の面倒をよく見て、心を込めて看護し、母親は間もなく退院した。呉さんの村と周辺の村では、呉さんが親孝行で有名である。
昨年9月21日午後4時頃、家にいた呉さんは押し入ってきた警官により再度連行された。家宅捜索を受け、多くのものを押収された。妻は3年前に亡くなり、子供も同居していなかったため、呉さんが連行された事を家族は知らなかった。
2日後、呉さんの求めによって、警官は呉さんの家族に電話した。家族が家に戻り目にしたのは、庭の大門、各部屋のドアがすべて開けられたままで、室内は物がめちゃくちゃに散乱していた。警官の行為は、諺(ことわざ)で言う「かつて土匪(どひ・土着の盗賊)が奥山にいたが、現在は公安にいる」ことを裏付けた。
3カ月経ったが、呉さんは未だに項城留置場に拘禁されており、しかも裁判に直面している。