文/中国の大法弟子 悟空
【明慧日本2018年2月6日】またも旧暦の歳末になりました。時間の流れていく速さに悲しみ嘆くと共に、多くの感慨も覚えます。当初、一念の妨げで大法とすれ違った後、15年間も修煉のチャンスに巡り会えることができませんでした。人生にはどれ程の15年があるでしょうか? 修煉を始めた最初の2年間を振り返ると、精進していた時間が多かったものの、すべては師父の苦心なる按排のおかげだと言わざるを得ません。
今年と言えば、精進していたとは言えませんが、以前と異なる体得を得ることも度々ありました。今までの修煉を振り返ってみれば、苦しみや喜びを知っていながら、その感銘を言葉で表現できない感覚です。もっとも感銘深いのは、根気よく修煉し続けることの難しさです。私の修煉状態はずっとしばらく精進してから怠惰になり、再び精進し出したと思ったらまたも怠惰になるというサイクルの繰り返しで、年頭から絶え間なく精進し続けていた年がなかった気がします。
古人の物語を読んでいた小さい頃から、私は「恒」(こう・いつも変わらない)という字に対して特別な感悟を覚え、事の大小や難易を問わず、どんな事においても「恒」を貫くことがもっとも貴いことだと思い、古人たちの根気よく努力する物語に感動し、啓発を深く受けたことがあります。小さい時の私は比較的に粘り強さがあって、物事を全うすることができました。歳を取るにつれて、この意志力がますます弱くなって、常に自分に根気よく続けるように喚起せねばならず、それでも、私の意志力と粘り強さは弱まる一方でした。
幸い、大法の種はすでに深く私の心に植え付けられました。大法の貴重さを骨身に沁みるほど感じるようになったのは、ついこの2年ほどです。以前も大法が貴重であることを知っていましたが、修煉を始めた喜びの感覚がもっと強烈で、修煉の本来の意義をじっくり吟味する余裕がありませんでした。
数十年間、精進の修煉状態を保ち続けてきた同修たちはきっと、法をしっかり学んでいるからだと思います。そして、彼らは自身の実践を通じて絶えず法を実証し、自分の修煉の道を着々と歩んでいます。自分自身の精進していた時期も、心を静めて学法することができて、求めずとも自ずと得ることができた時ではありませんか?
法を学び、そしてしっかりと法を学んでいくこと自体が精進の状態で、一切の根本です。法をしっかり学んでいるのであれば、理智と明晰な頭脳が備わるようになり、各方面において自然に容易く大法の法理を持って自分を正すことができて、理性に基づく正念も自然に生まれます。その状態の人間の一面での表れとして、修煉者は穏やかで、なすべきことがはっきり分かっていて、すべてを秩序正しく、成り行きのままで行なっていくことができます。
そして、往々にして学法が疎かになったときが不精進の始まりです。時には、処理せざるを得ない事が多くて、忙しすぎるから学法を1日遅らせようと考えてしまいます。しかし、悪い事が一旦始まれば収拾がつかなくなります。1日でも自分を楽にする言い訳をすれば、それが続けざまになってしまい、学法の継続性が一旦遮断されると、他のことも立て続けに悪循環に入ります。しかも、すべてを悪い方向に変えたのは、その一瞬に消えた小さな一念だけです。たとえば、「もう遅いから、1日中バタバタしてずいぶん疲れたので、まず休んで、明日にしよう」という一念に沿っていけば、その日は無駄に流れて行きます。しかし逆に、「こんなに疲れてきて、恐らく今日は学法と煉功をしなかったのが原因だ。今の時間を利用して急いで補おう」というように考えて、却って補った後はもっと元気になりました。しかも多くの時間がかかったようにみえても、その過程で知らず知らずのうちに多くの収穫を得ることができて、逆に時間が流れて行くのが速すぎると感じます。多くの事や大多数の状況において、一念だけで違った結果が生まれます。これがもしかすると人間と神の違いかも知れません。
師父は「皆さんが自責することを私は好きではありません。それは何の役にも立ちません」[1]とおっしゃっています。この間、師父に線香を捧げる度に自分の事を恥ずかしく感じていて、線香を捧げた後に、すぐにその場から「逃げる」ようにしていました。その後、師父のこのお話を思い出して、自分は正念を持って自身の修煉に対応していなかったことに気づきました。
いよいよ、今年ともお別れを告げる日が近づいてきました。時間もますます速くなっています。今生で師父の弟子になることができて、本当に、人間のいかなる言葉を用いても内心の感謝と感動を言い尽くすことができません。絶えず精進していくことをもって、大法弟子という称号を辱めないようにするしかないと思います。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『二〇〇三年元宵節での説法』