文╱中国の大法弟子
【明慧日本2018年2月13日】昨年の下半期から、明慧ネットで同修達が書いた旧勢力の迫害を否定する交流文章を多く読みました。それによって、私もこの方面に関する法理をよりよく理解ができ、そして、旧勢力の迫害の陰から次第に抜け出し、何か様子が変だと思う時、すぐに「師父は私を管理してくださっています。私には師父がおられますので、旧勢力に迫害される筋合いはありません」と考えるようになりました。
数日前、夫の車に便乗して出勤しました。夫は運転しながら、「お前が警官に連行された時、家は随分金がかかったよ」と愚痴をこぼしました。それを聞いた私は闘争心が出て来て、とても厳しい口調で、「もうこの事を二度と言わないで。この責任はすべて中国共産党にあります」。その後、夫もすこし苛立ちを覚え、「もうこれ以上トラブルを起こさないでくれ。今度トラブルを起こしたら、この家はもうおしまいだ」。夫に信じさせるため、私は思わず大声で「ありえないわ。前回トラブルに遇った原因は、私に顕示心があって、人から学んで、法から学ばなかったからです。今回、私は修めることの真意が分かりました。あんなことはもう二度と起こしません」と反論しました。
職場に着くと、まだ事務室に入っていないうちから鼻水が流れ始め、水のように止まらなくなりました。これはアレルギーのせいだと思いましたが、とても気分が悪くなりました。「自分の心性に問題があったのではないか」、私は座って、朝に起こった事を一つずつ自省してみました。すると、夫に話した「前回トラブルに遇った原因は自分には顕示心があって、人から学んで、法から学ばなかったからだ」、この言葉こそ旧勢力の迫害を認めているのではないか、と突然悟りました。「私には確かに人心がありました。しかし、それは旧勢力が私を迫害する理由になるのでしょうか? 人心があるならば、法の中で正していくべきではないでしょうか? 旧勢力とは何の関係もないはずです! この間違った一念は旧勢力に隙きに乗じられたのでは?」と思いました。そこで、私は事務室のドアを閉め、発正念をしました。結構長く正念を発しましたが、しかし、鼻水は依然として止まらず、昼ご飯を食べ終わるまで流れ落ちました。
再び印を結び、発正念をしようとした時、突然脳裏にある考えが浮かびました。「鼻水が流れることは旧勢力に隙きに乗じられたせいだ」、このような考え方はまた旧勢力と結びつけてしまったのではないのか? ああそうだ、私はどうしてまた旧勢力と結び付けるのだろうか? 法に合致していない所があれば、法に則って正して行けばいいはずで、これは師父が鼻水を持って私に漏れがあることを気づかせて下さっているのではないだろうか?」と悟りました。
「今日、鼻水が大量に流れて、とても辛かったのですが、もし私が大法を修めていなければ、今日、どれだけ大変な目に遭ったのか想像も出来ない。自分は法に則って高めていかなければならない」と思いました。すると、鼻水は直ちに止まりました。
今度の事を通して、私は「法に則って修めることとはなにか? 旧勢力の迫害を否定することとはなにか?」についてやっと分かりました。私達はどこかがおかしいと思う時、すぐに旧勢力に原因を求めてはいけません。すべての関門を乗り越えることは私達が高めて行くプロセスなのです。心性を高めれば、何もかも解決することが出来るのです。師父は『轉法輪』の第四講で、「どうしてこういうことにぶつかるのでしょうか? それらはみな自分自身の業力によるものです。われわれはすでに数え切れないほど多くの業力を消してあげました。残ったわずかなものは、あなたの心性を高め、心を錬磨し、さまざまな執着心を取り除くために、『難』として各次元に割り当てました。それらの難はもとよりあなた自身が持っているもので、われわれはあなたの心性を高めるためにそれらを利用するのですが、いずれも乗り越えられるようにしてあります。あなたが心性を向上させさえすれば、必ず乗り越えられるものです。それを乗り越えようとする気がなければ話は別ですが、乗り越えようと思えば、乗り越えることができるのです」ととても明確に説かれています。
この法理を悟ってから、また何かトラブルに遇えば、「師父は私に高めさせてくださっています。もっと向上しなくては」と思うようにしました。このように観念を変えれば、気持ちがとても楽になり、難関もとても早く乗り越えられるようになりました。
一昨日、突然歯が痛くなりました。今までの私は、まず発正念をしていたでしょう。しかし、今回は急いで発正念をせず、真剣に今日自分が何をしたかを自省してみました。その結果、自分が「口を修めていない」、しかも「嫉妬心」があることに気づきました。実は、職場の同僚の女性がすでに定年退職の年齢になっても、なかなか次の人に仕事の引き継ぎをせず、理由はなんと社員食堂でご飯を食べ続けたいからだそうです。同僚達は昼ごはんを食べながら皆彼女の噂をしていましたが、私は黙って何も言いませんでした。自分は修煉者で、決して裏で悪口を言っては行けないと分かっているからです。しかし、帰る途中、夫に職場で起きたことの一部始終を語り、そして、自分は他人より心がきれいだと思いました。実は、私のやり方は同僚達が人の噂をするのとあまり違いがなく、人心そのものでした。自分の問題を探し当てれば、歯の痛みもなくなりました。
一部の同修は何か様子が変だと思えば、すぐに発正念をしているようですが、もちろん、発正念をすること自体は問題ありません。しかし、こじれたことを正していくには、法に則って心性を高めなければならないし、法理を悟った上で、修めて行かなければならないのです。
少しの体得を持って同修と交流したいと思いました。くれぐれも法を師として学んで行きましょう。