文/中国の青年大法弟子
【明慧日本2018年4月18日】私は青年大法弟子で、法を得て6年経ちました。時には明慧ネットの同修が書かれた交流文章を読まずに、修煉のことをなおざりにしていました。なぜならば、自分の怠慢を思い出せば、非常に恥ずかしく思うからです。意気地なしで、精進せず、大法弟子が行うべき責任を果していない自分を悔やんでいる反面、自分の至らない処に向き合うことができず、見直す意欲もないまま、自分の修煉に大きな困難をもたらしていました。
私は修煉し始めた時から、ほとんど独修の状態でした。法はネットを通して得ましたので、ずっと1人で大法の本を読み、1人で師父の五式の功法を動画で見て習いました。また、1人で真相資料を作って、1人で真相資料を配り、真相を伝えてきました。
昨日、明慧ネットで同修の文章を読みました。文章の中で、中国の同修は海外にいる同修のことがとても羨ましく思っている事が書いてありました。海外の同修達は正々堂々と恐れることなくグループ学法に参加ができ、法会に参加でき、修煉体験の交流にも参加ができるのです。私もそう思います。海外の同修達のことがとても羨ましいです。海外にいれば法会に参加できるだけでなく、大勢で法を実証することも出来れば、真相を伝えることも出来ますし、また、慈悲で偉大な師父にもお目にかかることも出来ます。また、私は神韻芸術団の小弟子たちのこともとても羨ましく思います。互いに励まし合いながら精進できる環境があり、特に、師父が自ら導かれていることがとりわけ恵まれていると思いました。しかし、私が最も羨ましく思うのは、自分たちの周りに同修達がいて、お互いに連絡を取り合える同修達がいることです。彼たちは三々五々に集まって一緒に真相を伝えに出かけ、心性に対する関に遭遇する時に、交流する相手がいて、落ち込んでいるときに困難を乗り越える手助けをしてくれる同修がいます。私には誰もいないのです。修煉を良く行い、法をよく読み、三つのことを確実に実行してさえいれば、師父がすぐに私の傍におられます。私は他の大法弟子と同じように決して1人ではないとたとえ知っていても、やはり羨ましく思うのです。
自分のこの気持ちは執着であることは認識しておりますが、無意識に執着してしまうのです。中国国内の現状は国内の大法弟子なら誰もが知っていると思います。旧勢力はあらゆる隙に乗じて、頭に党文化の満ちている真相の知らない人々を制御しているため、真相を伝える難易度も上がります。人々に真相を伝えようとすると、相手は警戒して、何か企みがあるのではないかと思うのです。また、三退の話をすれば、相手も自己防衛本能が先に働き、何か害を加えられるのではないかと避けようとします。世人に誤解されるやるせない気持ちは大法弟子しかわからないのです。私の場合はその気持ちを全部1人で受け止めるしかありません。もし自分の傍に1人でも同修がいれば、どんなに心強いことかと時々思うのです。
独修において出遭った最も大きな問題はやはり修煉のことです。学法を終えて、明慧ネットの交流文章を読んでも、感想を語り合う相手がいません。一つの問題について、自分の見解が正しいかどうか、そして、その見解に沿った行動は適切であるかどうかは何も交流できません。数えきれないほど修煉の道で途方に暮れて、心性の関を乗り越えられず、幾度も打撃を受けては意気消沈しました。しかし、自分の修煉状態の低下は即座に顕れたのではありません。少しずつ蚕食(さんしょく・蚕が桑の葉を食うように、片端から次第に他の領域を侵略すること)されました。精進したい気持ち、修煉の向上を望む心は少しずつ蚕食されていくのです。また、問題の重大さ、修煉状態が低下した深刻さに気付き、そこから精進できる状態まで這い上がる過程は胸をえぐるように辛いものです。本当の問題点を見付けることが出来なければ、思い切って執着心を取り除く決心をつけることが出来なければ、永遠に苦痛の中でもがき徘徊することになります。
私の今の状態は正によくないこの状態なのです。仕事が忙しいため、この2カ月間、修煉のことを疎かにしてしまい、今まで続けてきた法の暗記も中断されました。認識した時には、今までに保ってきた法を暗記する方法はもうすでに乱されてしまいました。学法することを考えるだけで、頭痛がし、また、法を読み始めると直ぐに眠気に襲われ、学法する時にも集中できません。毎日朦朧としていて、自分はかなり危険な境地に陥っていることが分かりました。私はこのように転べばまた起き上がり、つまずきながらこの修煉の道を歩んでいます。「最近の状態はあまり良くないよ」と指摘してくれる同修は傍にいません。苦境から抜けだせるように、援助の手を差し伸べてくれる同修も傍にいません。恐怖に包まれ、真相資料を配りに出かける時にも共にする同修がいません。頼れるのは自分自身しかいません。そんな時に、自分の傍に同修がいたらどんなに良いかと、ついつい妄想にふけります。
これは依頼心だとわかった時に、すべて師父が私に按排された修煉の道だと考えました。「自分の力で歩まなければならず、同修がいなくても師父がおられます。私は神々が羨む大法弟子なのです。何を恐れているのでしょうか?」と自分に言い聞かせます。しかし、挫折を味わいつまずいた後、またこのような修煉の道を自分に按排された理由を追求し始めるのです。私は歩まなくても済む回り道を歩み、つまずかなくても済む辛い経験をしました。もし、同修がそばにいてくれて相談が出来たなら、多くの犠牲は避けられたのではないかと考えました。
ある日、同修達の明慧ネットでの交流を読んで、こう思いました。「私は同修達と面と向かって交流できないのですが、明慧ネットで自分の感想を発表できるのではないでしょうか」。すると何を交流しようかと思索し始めました。しかし、私は精進しているわけでもなければ、法を実証し、三つのことも確実に実行できているわけでもない自分に、交流するものがあるのかと自分に問いかけました。ある朝、目が覚め、キッチンでぼうっとしていました。また、なぜ私は独修していて、他の同修と繋がりがないことについて考えながら、師父の詩「更に麗し」[1](下記、参照)を暗唱しました。普段、私は法を実証することを行う前に、自分への励ましとしてよくこの詩を暗唱しています。過酷な環境に置かれていても、たとえ1人であっても、黙々と三つの事を行わなければなりません。
私は繰り返し、師父のこの詩を暗唱しました。すると、突然、一つの理を悟ることが出来ました。このような恐怖に満ちた高圧の環境下でも、真理を堅持し、大法に対する揺ぎ無い信念を持つこと自体が法を実証している表れなのです。全ての挫折、苦労、悔恨、やるせない思いは自分の修煉において、通過しなければならない過程なのです。梅の花は見えない処でも常に一様に咲きそろい、かぐわしい匂いを放ち、寒さに耐えながらも咲き誇ります。大法弟子それぞれが一輪の梅の花のようなものではないでしょうか。私が行っている修煉は法を実証していることになるのではないでしょうか。大法の導きがなければ、また真・善・忍への忠実な信念を持てない1人の常人に、これらのことが出来るでしょうか! 修煉者として実行すべきことが出来なかったのは、修煉者の次元がもたらした状態です。上手く修めることが出来なかったからこそ、更に精進して、堅実に修めなければならないことであり、いつまでも自分はなぜ独修でいるのかの原因ばかりを探っていてはいけません。
傍に同修がいない現状に置かれて、精進が出来ない時に、慈悲なる師父が幾度も夢の中で私にもっと精進するようにと啓示してくださり、決してこの不出来な私を見放されることはありませんでした。同修が明慧ネットの交流文章の中で「師父を除き、私達大法弟子の成就を望む者は誰もいません」と書いてありました。この文を読み、私は号泣しました。その時の気持ちは言葉では言い表わされません。真の修煉者しか、この言葉の奥意(ほんとうの気持ち・考え)を理解することが出来ません。
今日はここで、師父が書かれた「寒凌て自ら香散す」(さむさしのぎて)の句を暗唱した感想を書き出して、同修の皆さんと交流したいと思いました。不適切なところがあれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いしたいと思います。私の修煉はあまりよくできていません。邪悪が世に蔓延(はびこ)るこの厳しい環境の中で、私は退行し、意気消沈してしまい、自分の修煉状態は極めて危険な状態に至りました。この交流を契機に、時間と時空を超える宇宙の中で、私の大法を修め続けたい確固たる気持ちを表し、中国の片隅で、一輪の小さな梅の花が厳寒を凌(しの)ぎ咲き続けるように、これから先も黙々とあの一輪の小さな梅の花のごとく1人の大法弟子として、行うべきことを必ずしっかりと最後まで行い続けたいと思います!!
最後に、皆さんと一緒に師父の詩・「更に麗し」を敬読したいと思います。
『洪吟三』「更に麗し」
百花の艶争ひを逐はず
寒凌ぎて自ら香散す
強風の陵虐十年近し
天愈々晴れ
枝の雪溶けて梅花庭苑に満つ
合掌
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟三』「更に麗し」