文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年6月20日】
慈悲偉大なる師父、こんにちは!
同修の皆さん、こんにちは!
大法が伝わり広まる時代に生まれ、幸運にも偉大な師父と偉大な法に巡り合い、これこそ我が人生で最大の幸福と光栄です。
この世において、私は警官と軍人との縁が最も深い者です。というのも、父親はかつて海軍の士官で、転業した後は公安部門の仕事を手配され、父親と同世代の親類の大部分は兵役についたり、警官になったりしていたからです。妹と妹の夫、それと甥の何人かも警官でした。そしてさらに不思議なことは、高校のクラスメイトの中で警官を担った者が4分の1を占めていました。そして、高校を卒業後の2年目、私も軍人になり、その後、士官になりました。そして結婚し、妻の父親も警官でした。
転業した後、地方に行って仕事をし、その職場では社長から部門の責任者までの大部分が軍人から転業してきた人達でした。そして、私たちが以前住んでいた団地に住んでいた人達もみな入隊していました。その頃、私はかつて、親類がみな警官で私も軍隊経験を持っていることが誇りでした。
しかし、1999年7.20、形勢が急変し、私の夢まぼろしはすぐに打ち砕かれました! その日、公安局が法輪大法勉強会の数十人の輔導員を捕まえました。そして次の日、私もみんなと同じように朝早くから市政府に行って平和的に請願を出し、不当に捕まった法輪功修煉者を無条件で釈放するように要求しました。すると8時ごろ、警官が出動して来て修煉者を殴り、捕まえました。その時、私も大柄な警官に殴られ、警官は私の頭と背中にパンチを食らわしました。また、1人の60歳代の年配の男性修煉者が階段の上から階下に向かって警官に押し倒されました。
正午になり、広場の中央で私は昔の戦友を見つけましたが、現在は警察署の警官として1人の修煉者を追い込んで殴打し、こぶしで修煉者の体に激しくパンチを食らわせていました。転業した留置場の警官も広場で修煉者を殴っており、法輪功を迫害するために、共産党当局は全市の警官を総動員していました。
1999年7月20日から中国共産党は法輪功修煉者に対する残酷な迫害を開始し、それは今でも続いており、私たちの町でもすでに140人以上の修煉者が迫害によって死に至っています。その中には軍に所属する将軍や退職した年配の連隊長、検察官、国の優秀な公務員、教師、エンジニア、医師などがいました。共産党の虚言に騙されて、多くの人が良心にウソをついて迫害に加担し、よい人達を残酷に苦しめました。昔のクラスメイトや戦友が名利と少しばかりの報奨金のために、手段を選ばず法輪功を迫害したことを私は知っており、その人達の悪行は明慧ネットの「悪人リスト」に載せられました。
その時から私は「人々に法輪功が迫害されている真相をはっきりと伝え、共産党に毒害された衆生を救い済度し、救い出すことができたら」と願いました。
以下では、昔の戦友と警官に真相を伝えた一部分を師父にご報告すると同時に、同修と交流したいと思います。法に沿っていないところがありましたら、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。
指令官が肩をかすめて行う
1999年7月以降、共産党は馬力をかけて法輪功を罪に陥れ、デマを飛ばし、いわゆる「自殺」や「殺人」、「両親と妻を殺した」、「腹を切って法輪を探した」、「薬を飲ませずに1400人が死んだ」などをテレビ局が24時間速報で放送しました。ウソも千回繰り返せば本当に真理になってしまい、人々はウソに毒害され、大法と大法弟子を敵視しました。そして、私はごまかされた国民のために焦り、何が本当の法輪功であるかを、どうすれば人々にわかってもらえるのかを考えました。
ある日の昼休みの時、会社の前の並木道を散歩していた時に、司令官が私の方に歩いて来るのが見えました。その司令官は中将の称号をつけていましたが、その日着ていたのはふだん着でした。私は司令官に挨拶しようと思いましたが、ある力によって口を開くのを阻止され、口をつぐみました。司令官は私を見、私も司令官を見ましたが、私のそばを指令官は肩をかすめて行きました。それ以降、その司令官に会うことはありませんでした。このことは今でも最も残念に思っていることです。私は真相を伝える最もよい機会を失ってしまったからです。しかし言ってみれば、私と司令官にはその後、縁がありました。1983年、私たちの部隊は「師団、連隊、兵営、中隊」で4級幹部の研修を行い、私が軍事教官でした。今回の合宿訓練を司令官は非常に重視しており、司令官自らが教官の授業の状況を視察し、内容を手直しする提案を出しました。
何が原因で私が口を開いて、真相を伝え人を救うことが阻止されたのでしょうか? それは根源を掘っていけば「恐れる」心であり、迫害されるのではないかと恐れる心が私を押しとどめていました。迫害が始まったばかりの頃のある日、バスの中で、警察署の戦友がたくさんの人の中に混じっていて「あなたはどんな功を修煉しているのですか?」と私に聞きました。しかし当時、私は答えることができませんでした。そしてこの「恐怖」は重い障碍となりました! しかし、縁のある人を救い済度する機縁を二度と失ってはいけませんので、必ず恐れる心を取り除こうと決心しました。
政治部の旅団主任が「文章がとてもよく書けていて、レベルが実に高い!」
ある日、町で政治部の旅団主任に出会いました。真相を伝えるべきでしょうか? 私の本性は「必ず真相を伝えなければならない!」と告げていました。政治部主任は幹部を管理しており、私が部隊にいた時は優秀な政治教官として評価され、参謀部の訓練改革に参加する中で、指揮訓練と実弾射撃の成績が優秀だということで手柄を立てました。そこで、私は主任に「法輪功を修煉して良い人になったために、私は迫害されました」と伝えました。すると主任は「私たちの家の新聞受けにもいつも誰かが資料を入れるので、私も見ています。文章がとてもよく書けていて、レベルが実に高い!」
この主任のレベルは高く、共産党のウソに惑わされていなかったので、私は本当に喜びました。そして、別れる時に「『天安門焼身自殺事件』がペテンであることを暴露する」のDVDを手渡し、家に帰ってから主任に見てもらうことにしました。すると、主任は喜んでDVDを受け取りました。
資料を配った同修の皆さんに本当に感謝します。みなさんが配った真相資料が主任の心を開き、主任は真相を理解し救われました。
旅団参謀長は「この法輪功に関する説明は間違っておらず、政府が間違っている!」
10年前、市政府の付近で旅団参謀長に会いました。そこで「私は法輪功を修煉しているので、北京に行って平和的に陳情する準備をし、中央政府に法輪功への迫害を停止するよう要求しましたが、駅で警官に不当に連行されました。そして、警官4人が私を地面に押し倒し、自白を強要し、私は3年間の労働教養を科され、留置場で60日間拘禁されてからやっと釈放されました」と参謀長に伝えました。そして「北京に行って陳情し、捕まえられた法輪功修煉者の大部分が不当に労働教養に科され、拘留され、罰金を納めさせられ、公職を解かれ、不当な判決を受けるなどしました。拘禁されている間、普通は拷問を受けて自白を強要され、さまざまな苦痛を受けます」と伝えました。
参謀長は「政府がこんなにも厳しく法輪功を鎮圧しているのに、法輪功修煉者はそれでも北京へ陳情に行くことは、修煉者は間違っておらず、間違っているのは政府の方だということを説明している。私たちの政府は本当に自分をしっかりと見直すべきで、いったいどこが間違っているのかを見るべきだ。そうでなければ、国民が生命の危険を冒してまで陳情に行くはずがない。きっと冤罪を晴らすためにこのように行っているのだ!」
参謀長は思慮深い人で、参謀長の義理の父親は部隊が簡素化される前は、私たちの部隊の師団参謀長でした。参謀長のように大義をよくわきまえることができ、事の是非曲直(物事の善悪・正不正のこと)をはっきり見分けることができる人は、中国にも確かに多くいました。
あっという間に10年が過ぎました。その日、私と妻は朝市で野菜を買って帰る途中で、参謀長に偶然会いました。参謀長はすでに定年退職しており、少し老けたように見えましたが元気そうでした。参謀長は私の妻に「彼(私を指して)は法輪功を修煉し、私たちの部隊で有名になりました! 彼は私たちの旅団で最も優秀な砲兵指揮幹部でした」
話している間に、また部隊の戦友が1人やって来て、旅団衛生隊の呉軍医でした。私は呉軍医と十数年同じ建物で過ごしました。共産党が法輪功を迫害した後、私は何度も呉軍医に真相を伝え、呉軍医はあまり受け入れませんでしたが、その後、だんだんと変わっていきました。そして、参謀長は糖尿病で、呉軍医は体が悪く、病気のために定年退職したようでした。そこで、参謀長と呉軍医にネット封鎖突破ソフトのDVDを手渡しました。そして、参謀長と呉軍医に「真実の情報を見てください」と伝え、大法書籍を読めば参謀長と呉軍医の心身に良い事があることを伝えました。それから「ネット封鎖突破ソフトを使って明慧ネットを開けば大法書籍を読むことができます。私は修煉して二十数年間、全身の病気が治療せずに治りました。二十数年来、薬を飲む必要もありませんでした」と伝えると、参謀長は「わかりました、帰って見てみましょう」
参謀長と呉軍医と別れた後、妻が「あなたと彼らとは天と地ほどの違いがあり、あなたは血色が良く顔がツヤツヤで、元気がみなぎり、顔にシワやシミがなく若くて健康に見えます。それに対して、彼らはどうしてあのように老けてしまったのでしょうか?」。実際、参謀長と呉軍医は私より5、6歳くらい年上なだけでしたが、見たところ若年寄のように顔はシワだらけでした。
私は妻に「師父は『轉法輪』という書籍の中ですでに明らかにされており、師父は『法輪大法の学習者は、一定期間の修煉を経ると、表に現われる大きな変化として、肌のきめが細かくなり、色も白くなり赤みがさしてきます。年配者は、皺が減り、ほとんど消えてしまう人もいます。これはよく見られる現象です』と説かれている」と伝えました。
妻は「違います、本当に違いますよ!」と何度も言いました。
開国将軍の子孫で軍砲兵指揮部隊の主任は「私は脱退します!」
2008年8月のある日の午後、オリンピック広場の前で、十数年ぶりに顔を合わせた参謀長にばったり出会い、その後、参謀長は軍砲兵指揮部隊の主任になったようです。少し話をした後、私は「参謀長、あることを伝えなければならないのですが。今、天災がどれだけ起きていると思われますか? 2月には南方で大雪が降り、続いて手足口病、5月には汶川大地震、つづいて南方の大水と、災難続きです。これらの天災は、脱党すれば命が保たれるということを警告しています」。すると、参謀長は「私は何度も脱党の申請を出したが、許可が下りなかった」。そこで私は「あなたに『軍中縁』というペンネームをつけますから、それで脱退しませんか?」。参謀長は「わかった、脱退しよう!」ときっぱりと言いました。
参謀長は将軍の子孫で、1955年に初めて軍人の称号を授かり、参謀長の父親は少将の称号を授かった開国将軍でした。この参謀長は高級幹部の子供で、中国共産党上層部の腐敗と共産党が間もなく滅亡するという趨勢(すうせい・物事がこれからどうなってゆくかという、ありさま。なりゆき)を深く知っていました。そして、参謀長が自分のための選択をしてくれたのでうれしく思いました。
以前、参謀長の体がずっと良くなかったことを私は知っていました。別れる時、私は参謀長の平安を祝い「危難のときは必ず『法輪大法は素晴らしい! 真・善・人は素晴らしい!』を覚えておいてください」と伝えると、参謀長は「ありがとう!」と礼を言って、この場を立ち去りました。
師団の政治委員は私に向かって 両手で合掌する
帰宅する路上で政治委員にばったり出会い、政治委員はその後、他の部隊の師団の政治委員になったようでした。顔を合わせて挨拶してから、私は政治委員に真相を伝え「法輪功を修煉することは間違っておらず、国民は信仰をもつ権利を持っています。憲法は国民に信仰の自由を与えているので、中国共産党が法輪功を弾圧するのは、中国共産党の犯罪です」。しかし、私が真相を伝え終わっても、政治委員は何も話しませんでした。思いもしなかったことに、政治委員は意外にも両手で合掌し、私に向かって佛家の礼をして見せました!
実際、政治委員は非常にはっきりと分かっていました。共産党が法輪功を迫害する前、私たちの地区の陸海空の3軍はみな法輪功を修煉しており、多くの将軍と首長とその親族がみな法輪功を修煉していました。そして、私たちの師父はかつてこの町で何度も法を伝えられており、師父が法を伝えられている間、北京の将軍はわざわざ私たちのこの町まで来て、師父の法を伝えるグループに参加しました。その時、軍人と警官の大法弟子はみな軍服と制服姿のまま、師父の説法と師父が法を伝えられるのをじっと聞いていました。
その頃毎週土曜日に、私も地元の軍事学校の学法グループに参加して学法していました。その家の主人は師団級の士官でした。そして、奥さんはとても親切でした。その人達の家は日本式家屋の一軒家で、部屋が5、6部屋とロビーがありました。そして、遠くからでも大法の音楽の『普度』と『済世』が聞こえ、その居住区域全体は和やかで慈悲に満ちていました。
私たちのこの学法グループには多くの人がいて、みな大佐の称号を得た師団級の士官で、しかも皆その学校のリーダーでした。聞いたところでは、その学校には100~200人の士官と修煉者と兵士が法輪功を修煉していたそうです。またそこは中国で最も有名な軍学校でした。そして、私たちのグループに退職した年配の連隊長がおり、学法には毎回、軍服を着て正装し、血色が良く顔がツヤツヤで、若者のように元気いっぱいでした。
その頃を思い出す度に、心の中がなんだか暖かくなります。
1999年、共産党が法輪功を弾圧した後、軍隊の中での法輪功修煉者に対する迫害は、非常に厳しいものでした。その頃の軍隊は江沢民が中国共産党軍事委員会の主席でもあり、軍隊の中ではポストの売買が行われ、密貿易をしたり密輸品を売りさばき、軍隊のホテル内で愛人を囲っていることさえ、公然の秘密でした。軍隊は江沢民によってすでにひどく腐敗堕落してしまい、地方と比べ遠く及びませんでした!
その年配の連隊長はかつて糖尿病を患っていましたが、修煉後に完治しました。しかし、共産党に弾圧された後、連隊長と妻は何度も不当に連行され、家宅捜索を受け、罰金を支払わされました。警察署の警官が連隊長の髪の毛をつかんで壁にぶつけてビンタし、連隊長を地面に押し倒し鼻血が流れ出ました。その時、連隊長はすでに70歳代でした。2007年、連隊長は職場に8日間軟禁され、トイレにも行かせてもらえず、家に帰った後、いつも転び、気がボーッとするようになり、その後、半身不随になって自活できなくなりました。そして、2008年9月5日、冤罪が晴れないまま死亡し、享年76歳でした。
地元のある将軍はずっとマルクス・レーニン理論を研究していましたが、大法に出会った後、なんとあの無神論者が法輪功の修煉者になりました。そのことは、軍内外に対し大きな影響を与えました。しかし、1999年7月20日、共産党が弾圧をはじめると、幹部の療養所では続けて3回も党のグループ会が開かれ、その将軍に対する強制的な迫害が実施されました。将軍に強制的に修煉を放棄するように迫り、そのため将軍は脳血栓になり、同年11月に冤罪が晴れないまま、この世を去りました。
ある軍事学校の女性教師は技術の副師団級でした。しかし、法輪功を修煉していたので、何度も警察署の警官に不当に連行され、家宅捜索を受け、手錠と足かせをはめられ、黒い袋を頭にかぶせられたりなどし、2016年、不当に懲役8年の実刑判決を受け、女子刑務所に入れられました。
江沢民が法輪功を迫害した後、私たちの地区で法輪功を修煉していた多くの軍事学校の士官は正規の師団級でしたが、「真・善・忍」を固く信仰していたならば、それだけで強制的に軍服を脱がされ、転業させられました。
警官は「功名利禄をすべて放下し、日夜、神の知らせを届ける」
私の戦友の1人は転業した後、警察署で中隊長になりました。ある時、別の戦友のところに行った時にその中隊長に偶然に出会い、家の中の人はポーカーをして遊んでいました。そこで、私は機会を見つけてポーカーをしている人達に、法輪功が迫害されている真相を伝えました。真相を聞き終わると、中隊長は「よくわからないのだが、あなた達がいろいろなところで伝えているのは、政治を行っているのか」と聞かれ、私は「信仰の自由は憲法が国民に与えた権利です。私は北京へ陳情に行ったために、3年間の労働教養を科され、公職を解かれ、罰金を払わされました。警官が私を拷問にかけて自白を強要しようとし、警官に何度も殴られました。私は政府に向かって、人々に向かって真相をはっきり伝えただけであり、これは政治を行っているのではありません。これは人としての最も基本的な権利です」。すると、中隊長は何も言わなくなりました。
中国共産党が法輪功を迫害した後、私は戦友の1人と話しました。その頃、北京に陳情に行く法輪功修煉者が多く、ある期間にその戦友の妻がアメリカの兄の家に親族に会いに行き、数カ月後でないと帰って来ないという話を聞かされました。そして、戦友のリーダーは北京に行って、平和的に陳情に来た法輪功修煉者を捕まえるように戦友に言いました。捕まえればボーナスと補助金が多く出たので、北京に行った多くの警官が財を成していましたが、その戦友は同意しませんでした。その戦友は友人に個人的に「法輪功を修煉している人はみな良い人で、中には多くの高齢者がおり、煉功すれば健康で丈夫になり、病気治療と健康保持に効果があります。それを知っている私は彼らを捕まえには行かない。法輪功修煉者を捕まえてもうけることはしません。もしボーナスが欲しいのなら、その能力を使って暴力団に立ち向かい、刑事犯を捕まえます」
その日、私たちは多くのことを話しました。その戦友は「私の息子が8歳になったら、息子をアメリカに行かせます。中国にいたら息子はだめになってしまいます。今、彼に母国語の漢字を学習させていますが、それは中国語を忘れてしまったら、彼の根本を捨て去ることになり、それはしてはいけません」。そして戦友は「新聞社の友人から聞いたのですが、新聞社の何人かは専門に法輪功に関する文章を書いており、みな上層部からの指示を受けているそうです」。法輪功が迫害されている18年の中で、権力の手足となった文章家は良心をくらましてデマを流し、悪辣な攻撃をして法輪功を誹謗中傷し、最も悪い作用を働いていました!
その戦友は地方で大学を卒業した後、軍事学校に入りました。転業する前、連隊で指導員を任されました。別れる時、私は戦友と握手をし、戦友は「お大事に」と言い、最後に笑いながら「功名利禄をすべて放下し、日夜、神の知らせを届けます」と言ってくれました。
戦友は大法弟子が「神の使い」であることを知っており、「真相を伝え、福音を伝える」のは人を救うためだということをよく知っていました。そして、私は心から戦友のために祝福しました。そして、戦友に「『法輪大法は素晴らしい! 真・善・忍は素晴らしい!』を覚えておいてください!」と伝えると、戦友は笑いながら、その場を離れて行きました。
(続く)
(明慧ネット第14回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)