文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年7月30日】私達は往々にして、常人と争わない努力を最低限していますが、同修の身に起きた問題に対しては、特に病業の関が顕れた同修の場合、焦りと自我を執着する要素が作用するため、常に、自分の魔性の行動を同修に対する厳格さの表れだと見做してしまうのです。
ある同修は周りの同修が病業の関、或いは家庭のトラブルに陥った時に、常に「あなたはこのままだと危険極まりない」と断言します。その同修は相手の同修に対して、人心を取り除くよう、修煉を厳粛に行なってほしいという着眼点は良いのですが、このような表現は口を修めていない顕れです。私達は言葉を慎重に選ばなければなりません、なぜなら、私達の言葉にはエネルギーがあるので、軽率に相手の行動に定義を下せば、相手の関の難度を増してしまうのです。まして、修煉者は難関に陥っているときは、正念が足りていないはずなので、人心をたくさん抱えているときに、本人を刺激して、正念を強く持つようにという言葉は、往々にして、逆の効果しか与えないのです。当事者は周りの同修が自分を非難し、責めているという被害者意識しか持てなくなり、プレッシャーが増せば、正念は尚更起きないのです。このような発言は、ほとんど、自我の要素が多く含まれていて、他人に押し付ける発言なのです。
多くの同修達が、他人は自分の認識できている修煉の形式通りに行なうべきだと考え、他人の行動が認識できる範疇を超えれば、「法の上にない、間違いだ」と判断します。厳しく言えば、このような同修は自分の認識が法の全てであり、他人は自分の認識に従わなければならないと、無意識のうちに考えています。この思惟は普遍的であり、協調人と精進している同修の間で特に目立っています。
多くの場合、他人の修煉状態を評価することから、自分の認識の限界を見ることが出来ます。例えば、一文無しの貧しい修煉者が、起業して忙しくしている同修を見て「起業したのだから、徳を全部お金に換えたのだ」と言い、裕福な修煉者が貧しい境地に追い込まれている同修を見て「この有様を見てごらん、大法の顔に泥を塗るようなものだ」と言います。また、未婚者が既婚者を見て、婚姻は情欲に溺れ、自ら魔難を招いてしまう自業自得な行為だと見做し、既婚者は所帯を持たない同修のことを「無責任だ、家族の気持ちを無視して、衆生を駄目にした行動だ」と評価するなど、このような考えがあります。これらの同修の認識から、彼らの言葉の言外の意味がわかります。要は修煉者は起業してはならない、或いは起業しなければならない。また、結婚してはならない、或いはしなければならないということを言っているのです。
私はこれらの同修は個人修煉の枠からまだ抜け出ていないと思います。大法は今日人類社会で広く伝わり、すべての人が救い済度する対象です。全ての階層で様々な職業に就くこと自体が正常な行為です。その職業を通じて、私達は修めて自分を高め、真に法を実証して衆生を救うかが私達の個人修煉の表れであり、法から規制された事ではありません。これは完全に二つ異なる概念だと思います。
同修が魔難に遭遇した時に、私達は厳粛に対処しても問題ではないと思いますが、しかし、相手を責めて、不満を溢し、甚だしきに至っては、自分の魔性な一面をそのまま出してしまえば、自分の修煉はまだ基準に達してない表れだと思います。魔性を帯びる発言は事態を悪くしてしまうだけなのです。
修煉は自分を修めることです。魔難に陥っている同修を訪ねることすら、自分を修める過程であり、親身になって、その同修のために責任を持てるか否かが問われます。魔難の中にいる同修は、自分の心情を告白でき、手を携えて関を乗り越えていける相手を必要としているはずです。もし、このような同修に出会ったら、慈悲深く、理性をもって、知恵を使って、自分の正念を強めて、相手にとってプラスになる発言(例えば、希望を齎す言葉で同修に法理を悟らせるなど)をすれば、もっと効果的だと思います。同修を援助することを機に、自分を修めることが肝心であり、自分のことを称えるのではなく、魔性を放縦させることでもありません。
何かに遭遇した時に、私達は必ず厳格さと魔性を区別して、理性を持って上手に行ない、全ての機会を大切にしましょう。
私個人の体得ですので、参考にしてください。