文╱中国の大法弟子
【明慧日本2018年9月27日】ウィーチャット(WeChat)の処理について、私はこのようにしました。まず新しい携帯電話を購入して、元の携帯電話のメモリカードを挿入し、ウィーチャットからアカウントを取り消し、アプリを削除しました。元の携帯電話は家に置き、普段、使わないようにしました。しかし数日後、私は再び2回もウィーチャットを取り付けせざるを得ませんでした。理由はこうでした。
1回目、ウィーチャットからアカウントを取り消し、アプリを削除しましたが、他の人は私宛に依然としてメッセージを送り続け、しかもウィーチャットからはいかなる提示もありませんでした。そうすると、他の人が私はメッセージを受け取ったが返信していないだけだと思ってしまいました。確かに、私は「もうウィーチャットを使いません」と皆に宣言しておらず、ただいつも連絡している同僚と家族にしか伝えていませんでした。そして、私は再びウィーチャットを取り付けて見ると、アプリを削除している間にも、メッセージをすべて受け取っていたことが分かりました。そこで、私は「使用中止」のアイコンの写真を見つけ、そして自分の写真を入れ替え、下に丁寧に「用事があれば、電話をかけてください」とメッセージをつけました。こうすれば他の人が私はもう、ウィーチャットを使わないことが分かるだろうと思い、そして、再度アプリを削除しました。
2回目に、私の予想に反して皆からの返信を見ると、やはり伝わっていないことが分かりました。大勢の人が私がただアイコンの写真を入れ替えただけだと思っているようでした。ちょうどその時、私が担任をしているクラスのチャットグループのリーダーが休暇に入るため、私はリーダーに指定されました。私は他の人をリーダーに指定しようとしましたが、その変更の操作は私からしなければならず、他の人にはその権利がないからです。そこで、私は再度ウィーチャットを取り付け、クラスのチャットグループのリーダーを他の人に変更しました。ここまで来て、私はこの問題を改めて考えました。
明慧ネットが『すべての大法弟子への注意事項』を発表してから、関連する交流文章はすべて同修達が正念を持ってウィーチャットを削除した内容でした。同修達の行動に敬服し、自分も大いに励まされ、私はウィーチャットから徹底的に離れようと決意しました。しかし、実際の状況は千差万別でした。「他人の気持ちを全く考えずに、ただ一方的にウィーチャットの使用停止をすることは適切だろうか?」と改めて考えました。
例えば、私は幼稚園の先生をしていますが、クラスのチャットグループ内での知らせや情報伝達によく使っています。親たちはほとんど毎日のように子供たちの様子をグループ内で提供しているため、もし、私がウィーチャットの使用を止めれば、他の先生にとても大きな仕事の負担をかけてしまいます。これはあまりよくないと思いました。師父が説かれた500匹の実験用マウスの法理を思い出しました。師父は「しかし、修煉とは向上のために修煉しているのであって、あなたはすでにこの執着を捨てられたというのなら、なぜ、執着を恐れること自体も捨てないのでしょうか?」[1] と説かれました。
今の社会の実際の状況はすでにこうなっていて、ほとんどすべての人はウィーチャットを使っており、ウィーチャットがなければ生活もできない状況となっていました。2回のアプリの削除の経験から見れば、確かにこのアプリが不良で、新しい宇宙には認められないでしょう。大法弟子も決してそれを認めることはできません。しかし、現実的に常人にマイナスの影響を与えてはいけません。そこで私は以下の案を考え、ここに書き出し、同修たちと共に検討したいと思いました。
1、ウィーチャットに対する執着と依存を取り除き、モーメンツを見ないようにし、ウィーチャットのお年玉アプリを使わず、話題のニュースを見ず、暇つぶしの道具にしないようにします。しかし、確かに仕事上の理由で止められない場合、しばらく使わせてもらってもいいのではないかと思いました。
2、2台の携帯電話を用意し、1台目はウィーチャットを取り付けないで使います。2台目はウィーチャットを取り付けて、家族内、あるいは職場だけで使い、普段は常に持たないようにします。つまり常人の仕事の連絡用にだけ使うようにします。
これはあくまでも移行するための方法です。普段はできるだけウィーチャットを使わないように、あるいは使う頻度を少なくして、次第にウィーチャットの支配から離れるようにします。こうすれば、いきなりウィーチャットを削除することによって、もたらされたマイナスの影響を軽減することが出来るのではないかと思いました。
このように悟りましたが、正しいかどうかは分かりません。法に則っていないかと心配して、書き出して同修たちと交流したいと思いました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「漏れるところなし」