文/海外の大法弟子
【明慧日本2018年11月1日】何回か中国の同修から「文の終わりから逆に暗唱できる」という話しを聞いたことがあります。最初は「これはおかしい。冗談でしょう。こんなことをやる人がいるの?」と思いました。この言い方はただの形容であり、覚えが完璧ですらすらと暗唱でき、文の終わりから逆に暗唱できるほど経文を覚えていることの形容であって、本当に文の終わりから逆に暗唱せよとは誰も提唱していません。もしこのやり方で記憶力の訓練をするとしたら、それはあまりにも法を敬わないことになります。しかし、最近このようなやり方をしている人がおり、ほかの地域にもこうする人がいることを聞きました。このようにやっている同修は師父の説法の中に「文の終わりから逆に暗唱できる」とおっしゃていますので、『轉法輪』の終わりから逆に暗唱しましたと言いますが、これは間違った解釈です。
中華文化は悠久(ゆうきゅう・久しい過去に始まって、変わらず続くこと)の昔から続いて来ており、漢語の中には熟語が多く、しかも深い内涵があり、それもとても真に迫る言葉が多いのです。例えば、「慎重」を形容するときに、ときには「薄い氷の上で足踏みをする」という言い方がありますが、しかし、本当に薄氷の上で足踏みする人なんかいません。法を多く勉強することは良いことですが、必ずしも、文の終わりから逆に暗唱しなければならないことでは、決してありません。このようにする人は、一つの自己を顕示する心が混じっているのではないでしょうか? この熟語を誤って理解したのであれば、自分と他人を滞(とどこおる・物事が順調に進まないで、つかえたり、たまったりする)らせないように、意思の疎通を図るためにも一度、辞書で調べてみてはどうでしょうか。