文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年11月24日】数日前に、私は交流文章を書いたときに突然パソコンが故障して、1週間も使えなくなりました。修煉者にとってこれは偶然なことではないと思いましたので、私は内に向かって探しました。突然このような現象が現れたということは、自分の文章は法を実証するためではなく、自己を実証しているのだということに気づきました。不思議なことですが、この執着心が見つかるとパソコンの調子が良くなりました。それを悟った私は自分の書いた文章を新たに一字一句読み直し、自己を実証している部分を全部削除し、修正しました。
この出来事から私は考えてみました。文章を書くとき自己を実証するのか、法を実証するのか、ここには大きな差があると思います。もし自己を実証する場合、読者は読んだ後、この作者は中々いい事をいっていると思います。もし書かれた文章が法を実証するものであれば、読者は「法輪大法は素晴らしい」ときっと思うはずです。同修たちも文章を読んだあとで、自分の修煉に対して自信を持つようになると思います。自己を実証することと法を実証することには、このような雲泥の差があると思います。
自己を実証する場合には、文章の中にこの人は自分を偉ぶっているという感覚を読者に与えがちです。一方で、法を実証する場合には、法輪功学習者が大法を学ぶことによって、心身ともに昇華(しょうか・ある状態から、更に高度な状態へ飛躍すること)していることが伺えます。修煉者にとっては、大法と師父をもっと信じるようになります。
自己を実証することには威徳がありませんが、自己を放下することによって、威徳がいっそう大きくなるのです。だとすると、大法の偉大さを私達の身に現すことが出来ると思います。私達がはっきりと分かるべきことがあります。つまり、私達の威徳が大きいわけではなく、これらはすべて、大法の偉大な威徳を現したものであるということです。
これらのことは、現段階の個人的な体得です。同修ともにこれからも励まし合いましょう。