文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年12月5日】ある日、偶然に同修のAさんに会いました。Aさんは、1年前から自分の一軒家を賃貸で同修Bさんに貸しているそうです。Bさんは商売をしており、週末だけ帰って来てここに泊まるぐらいで、そして、ここで真相資料を作っています。
しかし、AさんはBさんが連れて帰って来た商売のパートナー(常人)との関係がどうも怪しく、夫婦のように出入りをして、通常の仲間関係を超えていることに気づきました。ある天目が開いた同修はその2人を見た時「2人の頭が分厚いネバネバした色欲の物質に覆われ、Bさんの家の空間場の至る所に黒い物質が充満し、とても汚くて怖い」と言って、Aさんにそこに行かない方がよいと忠告しました。
私はこの事態の重大さを感じ、どうすればよいのかとAさんに聞いたところ、Aさんは「まだ十分に考えておらず、2人は一体どういう関係かまだわからない段階で、どう切り出してよいか分からないでいます」と答えました。その時、私は非常に厳しい態度で「独身の男女同士が同じ部屋に住むということは、ちょっと考えればすぐに分かることです。あなたの所に危険が迫っていると感じています。『色欲の心』は旧勢力が人を駄目にさせるのに使う手口であり、いったんこの面で過ちを犯してしまったら、旧勢力は絶対にそれを見逃さず、許しません。この類いの教訓はほかにも多くあり、深刻なもので免れた人など殆どいません」
「法を正す時期に伴う修煉はすでに最後の段階に来ている今日、なぜこの面でまだ大きな過ちを犯しているのでしょうか? 旧勢力は虎視眈々と一人一人の学習者を見張っており、1年余りの間に、それらが何の行動をも取っていないのは、何かの陰謀を企んでいるのかもしれません。今後、他の同修を連れてそこに行かないようにしてください」
「もし、他の学習者に損失をもたらし、大法にマイナスの影響をもたらしたら、どうやって補うのでしょうか? B同修としっかりと話し合って、本当にそうであれば彼女にこのような関係を直ちに断ち切らせて、資料拠点を他に移転させましょう。この事を通して、あなたも内に向けて探さなければならず、偶然なことはありません」と、事の重大さをAさんにコンコンと言って聞かせました。
同修Aさんはうなずきながら「あなたの言う通りです。私はすぐに手を打ちます」と賛同して、2人は別れました。
家に着くと、すぐさま自分の態度や言葉遣いを思い出して、適切ではない所があるのではないかと考えましたが、見つかりませんでした。そして、「師父、弟子のやり方は正しいのでしょうか。それとも間違っていたのでしょうか? 私は確かに同修のため、大法のために考慮していましたか?」と、心の中で師父に尋ねました。
当日の夜、自分は間もなく舞台に出て出演する夢を見ました。本番の前に「同一の歌」を練習している場面をはっきりと覚えています。夢の中で、自分はその歌を一度歌った後「とても良く歌えて、他の同修より上手に歌えました」と人から褒められました。その時、朝の煉功ベルが鳴り、夢の中から目が覚めました。すぐに起き上がったものの、心の中ではまだ「同一の歌」を歌っていました。「なぜこの曲を歌ったのだろうか? これは邪党のよく使っている歌ではないのか? この歌を歌うことで邪党側に立っているのではないか? なんと恐ろしいことだろう」と自分でさえもなぜだか分からず、驚きました。自分は必ず何かの問題があって、師父が悟らせて下さっているのだと思い、1日中内に向けて探しても、この時は悟りませんでした。
夜、ベッドに横になり、前日Aさんとの対話をもう一度思い出した時、突然ある程度のことを悟りました。それは、自分の心の状態が「善」ではなかったからです。同修のBさんの行為に対して許すことができず、なぜあんな大きな過ちを犯したのか理解し難く、どうしても寛容できず、慈悲の心で対応することなどなおさらできず、意気地無しだと思い、彼女を見下していました。
さらに、旧勢力は必ず彼女を迫害するとさえ疑いなく思っていました。私のこの潜在意識の中で迫害されることを認めていました。表面上では同修を助けていますが、実際は同修を引きずり下ろしていたのです。
その上、自分は同修より高い位置に立っていると思い、同修を指導するように話した時に、自己に執着している顕示心が現れ、法を持って同修を押さえようとし、同修に内に向けて探すように要求し、自分には内に向けて探すことを全然要求していなかったのです。またさらに自分はいかに正しくて、法に則って悟っていると思っていました。表面上では自分の話には一理があると思っていました。その「善」ではない状態は旧宇宙の生命と同じであり、完全に邪党側の立場に立って考えていました。もし師父が悟らせて下さらなければ、自分では全く気づいていませんでした。
実は、学習者としてどれほど大きな間違いを犯しても、師父は私達を見捨てられることはなく、私達に改め直し、今後の道を正しく歩むようにと期待されています。師父は私達自身よりも私達を大切にしてくださっています! それなのに、それらのことを忘れていました。自分もかつて大きな過ちを犯していたではありませんか? そして師父は、その時決して私を見捨てられなかったではありませんか! どうして同修を寛容な心で許せないのでしょうか! そうであるならば、力の限り関を乗り越えられるように同修を手助けすべきです! 旧勢力に隙に乗じさせないように、さらに大法に損失をもたらさないように、力を尽くしてこれらのことをプラスに変え、同修を助けるべきです。
それを悟った私は合掌して「師父、私は間違っていました」、同修にも「私は間違いました。ごめんなさい」とわびました。
そして発正念をして、同修を操り迫害する色魔を根絶し、その空間場の悪い物質を一掃しました。その時に、色欲の物質は私の腹部に入ってきました。私はさらに強い正念を発し、色欲の物質を解体しました。その際に自分の身体は何回も大きく震えましたが、それは他の空間で必死にもがく邪悪物質が原因だと思いました。
その後に聞いた話ですが、Bさんはその男性と付き合うのをやめて、その部屋にめったに行かなくなり、倉庫として今は使っています。同修は師父のご加護の下で、内に探すことによって法の中で自分を正し、関を乗り越えることが出来ました。
これらを通じて修煉の厳粛さを感じ、大法弟子は「善」を修めなければならないことが分かりました。それと同時に、同修の所で何か問題があれば、周りにいる同修の態度がとても肝心であることを知りました。
まず、周囲の同修はこれらのことに動ぜずに、ま先に自分のことを内に向けて探すことが出来るかどうか、法に則って同修のために、慈悲心を持って寛容な心を持て対処できたかどうか。それらのトラブルを良いチャンスと捉え、プラスに考えて同修を助けたかどうかが肝心です。これが出来るかどうかは私達の必修課題で、全体が一つになれるかどうかの肝心な要素でもあります。
同修に如何なるよくない状態が現れても、それは同修の本当の自分ではなく、様々な人心と観念に操られたためで、その同修本人とそれらに関わった周りの同修たちも含めて、共に修めるべき要素が必ずあるのです。これこそが問題の根源なのです。
もし、私達が表象に動かされ「どうしてこれらの誤ちを犯したのか? このままではいずれ邪悪に迫害される、あるいは同修の行動はとても危険だから、巻き添えにされないように早く離れなければならない」と思うようであれば、同修を迫害される立場に追い込んでしまいます。その考えは旧勢力の考えと一致しているためで、旧勢力はさらに迫害の口実を見つけるわけです。
旧勢力は「この同修の仲間でさえ迫害に賛成しているのだから、我々が手を出さないわけにはいかない」と口実を付けて迫害するのです。すると、旧勢力はその同修をますます駄目にさせ、ますます執着させ、誰の話も耳に入らなくさせ、そうなると、尊大(そんだい・ひどく偉そうに人を見下した態度であること)で不平不満がつのり、文句を言うようになり、終いには相手にしなくなり逃避します。
そうすると同修間の隔たりはますますひどくなってしまい、ついに旧勢力は思い通りに目的を達成し、これを理由にして迫害するのです。そして、病業であったり、連行されたり、あるいは法を実証し衆生を救い済度している全体に、大きな損失をもたらしたりします。このような事例は各地に多く現れ、これらの教訓はとても深刻です。
ある日、座禅の時に「他人ばかり見ないように、それによってもたらされた業力と結果は、返済する時に分かります」と師父は悟らせてくださいました。当時、陰で同修の不足を言わないこと、同修の執着ばかりを見ないことを指しているのだと思いました。今は、何事につけても、まず自分自身に向けて探し、自分を見、これらの執着心が同修のところに現れていても、この根源は自分のところにも必ずあると分かりました。同修の表象に動かされず、人心にコントロールされている同修の執着の中に入らず、慈悲な心で同修を寛容な心で助け、また前向きに同修を助け、マイナスの観念を抱かず、同修と一緒に向上すべきです。偶然の事はないのですから、自分自身が問題に遇った以上、自分にも修めるべきところが必ずあり、果すべき責任があるはずです。
おととい、站椿の時にある同修を思い出しました。この同修は米国から帰って来たところだそうです。以前、この同修は電話の安全性を気にせず、何でも喋り、この件で数人と交流しても効果がなく、とても強い性格の人です。そこで、「彼女は今回帰って来て、また自分に電話するかもしれない、連絡ができないように設定しようか」とも考えました。この一念ですぐに暗雲がのしかかってきて、邪霊が私の空間場に入って来ました。急いで発正念をして取り除きました。ここでも私は間違ったと分かりました。自分を守る「私」と党文化の「悪」の念が生じて、邪悪を招いてしまったのです。ですから、私達の一つ一つの念がとても大切で、その一つ一つを是正しなければなりません。
「善の心」で同修に対処することは、「善の心」で自分にも対処することでもあり、非常に厳粛なことです。これらの教訓から、今後、「善の心」でもって何事にも真剣に対処しなければなりません。私達同修はこれらのことを教訓にし、手を携えて、師父のご恩に応えることが出来るように共に精進しましょう!!
この文章は急いで書いたものですから、法に則っていない所があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。