文/中国の大法弟子
【明慧日本2018年12月28日】謙虚なというのは自分自身を低くすることであり、老若男女や年齢、職業などにかかわらず、誰に対しても同じ態度を取り、常に謙虚で礼儀正しくなければなりません。昔の年寄りがよく言う言葉ですが、「外に出る際は、自分の世代よりもまだ三世代下まで、へりくだった態度を取る」。つまり、人には謙虚さが大切であるということを教えています。
「謙虚さ」と対立している言葉に「傲慢さ」という言葉があり、まるで「水」と「火」のように互いに相容れない言葉があります。
自分を低くすることには、自分の心の中の「傲慢さ」を克服することができます。傲慢さに打ち勝たないと、どうすれば喜んで頭を下げることが出来ますか? 修煉者には「謙虚さ」が大切です。なぜなら、謙虚でありさえすれば、他の人の意見や批判を受け入れられるし、内に向かって探すことができます。つまり、修煉することが出来るということです。とすれば、修煉の道を歩めば歩むほど度量(どりょう・他人の言行を受け入れる、心の広さ)が広くなるということです。
謙虚さがなければ、必ず傲慢になります。傲慢であるとしたら、誰も眼中に入らないことになります。すると、外に向かって探すことになり、見たものは全部人の不足や過ちばかりです。そうすれば、知らないうちに魔道に入り、魔道に走ってしまうことになります。
「謙虚な人」は、頭脳明晰にして理性的であり、良し悪しを判断できます。堅い意志で傲慢さにも打ち勝ちます。謙虚な人ほど人を尊重し、周りの人から好かれます。
「傲慢な人」は、心の中に多くの強い魔性(すぐに怒り出す心、嫉妬心、闘う心、欲張な心)を持っています。それなので、この人の主意識が弱くなる可能性があるかもしれません。他の空間の生命体に制御されやすく、道徳に背くような行動をしたり、あるいは放任すると他人を傷つける行動をしたり、家族関係を壊すような行動を起してしまう可能性さえあるかもしれません。
「傲慢な人」は思い上がって人を軽蔑したり、他人に対して偉そうにふるまったりしていますが、そのため、他の人と付き合うのが難しいと感じます。最後には、とうとう孤立無援(こりつむえん・ 仲間もなく、助けてくれる者がいないこと)な人になってしまいます。
世の中で、知恵の富んだ人達は皆、謙虚であり、道徳心の高い人達も皆、謙虚です。
「内に向かって探すことができる修煉者」は、謙虚であるべきです。謙虚さは修煉者として常に備えておかなければならない心構えであると、私は思います。
個人的な悟りですので、適当でないところがあれば、同修の慈悲なる指摘をお願いします。