文/シンガポールの大法弟子
【明慧日本2019年2月22日】私は20年間修煉してきました。毎回、同修が法を暗唱したという言葉を耳にすると非常に敬服し憧れました。また、明慧ネットに絶えず同修たちが法を暗唱した体験が発表されているのを見て、私も法を暗唱しようと決意しました。しかし、法は暗唱し難く覚えられないなどの観念に妨げられて、数十ページぐらいまで暗唱してやめてしまいました。
昨年の12月、花柏山観光名所で真相を伝えた時、1人の同修が自分は党文化に深く毒害されているため、法を暗唱していないと学法しなかったように感じると言いました。彼女は『洪吟』から暗唱し、かつ同修と一緒に暗唱しながらお互いに督促し合えば、途中でやめることもないだろうと言ってくれました。本当に有り難い言葉でした。その日から私は歩く時やバスを待つ時、地下鉄に乗る時などの時間を利用して、法を暗唱することにしました。
次にこの一年間に法を暗唱した体験を皆さんと交流します。
一、『洪吟』の暗唱を通じて、法を暗唱する自信を深める
『洪吟』を開いて最初の詩「その心志を苦しめる」の「圓満となって佛果を得る 苦を嘗めるをもって楽とす」を読んだら、突然一陣の熱い流れが全身に流れてきて、急に涙があふれ出ました。最後の詩「私は笑う 衆生の覚悟を 私は笑う 大法が伝わり始めるを」を暗唱するまで、涙を流しながら暗唱しました。思いがけないことに、『洪吟』を読む時と暗唱する時に感じられた内容は全く違うものでした。私は『洪吟』は法なので、必ず暗唱してから分かるようになると悟りました。
私はこの数年来、自分が精進できなかった原因は法を暗唱しなかったため、真に法に同化できることができず、法に溶け込むことができなかったからだと分かりました。今回、法の暗唱で幸いなことは同修と一緒に競って法を学び、修煉し、1日も欠かさずに1日に5篇から10篇の詩を暗唱したことです。今年の年始にシンガポールからニューヨークへ行く飛行機の中で、二十数時間の間に12篇も暗唱しました。その結果、到着した後、時差ぼけで適応できない感覚が全然ありませんでした。知らないうちに『洪吟』を暗唱するのが毎日の日課になり、まるで浩大な洪恩(広大なめぐみ。大恩)を浴びているようで、より多く法の深い内涵が感じられました。
3カ月後4冊の『洪吟』を暗唱し終えると法の暗唱に対して、もっと自信が湧いてきました。実は心を込めさえすれば、法の暗唱は難しいことではありません。
二、法の暗唱で考えが単純になり、集中できるようになる
『轉法輪』を暗唱し始めた時、私は各段落を『洪吟』の一篇の詩と見なして一段落一段落ずつ暗唱しました。法を暗唱する過程は心を修める過程でもあり、心が静まれば速く暗唱でき、雑念があると遅くなり、間違いが起こりやすかったのです。
法を暗唱することと法を通読することは大いに違います! 法を通読する時、まるで2人の自分がいるようで1人は声を出して法を読んでいますが、もう1人は最近あったことを考えているので、長時間法を読んでいても、新しい悟りがありませんでした。これと違って法を暗唱する時はうっかりすることができず、全神経を集中して一心不乱に暗唱する必要があり、一文字でも間違ったらもう一度初めから暗唱し直さないといけません。
法を暗唱することの長所はいかなる多少の時間でも、いかなる環境においても、学法できるということです。どこへ行くにつけても、いつも自分がどこまで暗唱したか考えています。時には1時間で1段落しか暗唱できないこともあり、また、時には歩道橋を通る間に1段落が暗唱できます。毎日起きてから寝るまでの間で、働く時間、集団学法や煉功する時間、あるいは真相を伝える時間を除いて、私が一番心を注いでいるのは法を暗唱する時間です。法を暗唱する時、一つの言葉を何回も繰り返して読むと、知らないうちに考えが単純になり、何の雑念もなくなります。
法を暗唱して法の中に溶け込むと、ある一陣の熱い流れが全身に流れ込み思わず涙が流れ出ます。まるで、師父の声が耳もとについているようで、何とも言えない美妙さと神聖さを感じます。
三、法の暗唱で意味が分からなかった部分について 新しい悟りが生じる
法を通読する時、私はずっと「玄関設位」が神秘的に感じられ、理解できませんでした。ところが私が一言、一言暗唱した時、まるで動画を見ているように元嬰が透明の気泡に包まれて徐々に成長し、徐々に移動するのが見え、「金色に輝く元嬰が金色の蓮花座に坐って」[3] が見えて、この上なく美妙であると感じました。「玄関設位」を暗唱し終わったとき、佛体はそもそも眼の前の近い所にいることに気づきました。
法を暗唱する時、私はいくつかの異なる辛さを比べ合うことができました。気泡が上昇する時「息詰まるような感じがし、血管が締め付けられ詰まったような感じになって辛い思いをしますが」[3] 、玄関設位する時「天目が張って痛くてたまらないし、太陽というツボも破裂しそうな感じがして、目が落ち窪んでしまいます」[3] 、玄関帰位する時は「突き出てくる時、頭が割れんばかりの感じで、その辛さは並大抵のものではありません」[3] なるほど人体に功が出たり、多くの生命体が修煉によってできる時は辛い感じを伴っていました。だからこそ、私たちは体調が悪いときにはくれぐれもそれを悪いことと見なしてはなりません。もしかして、良いことかも知れません。
今年の6月に、二〇一八年ワシントンDC法会から帰ると、一緒に学法していた1人のお爺さんが「以前体調が悪い時、私は我慢して病院に行かないようにしていましたが、今回師父が『病院に行ってもよいのです』と説法されたので、今後は病院に行っても大丈夫だ」と言いました。このお爺さんが師父の説法に対して誤解していることに気づき、私は姉と一緒にお爺さんの家に行き、一緒に『二〇一八年ワシントンDCでの説法』を読みました。「新しい学習者または長い間修煉しても向上できない学習者に病業が現れた場合、病院に行ってもよいのです。治療を受けてよいのです。それは修煉過程のことです」[4] を読んで、お爺さんにこう話しました。「もしお爺さんが病院に行ったら、この関は乗り越えられなかったことになりますよ。それはまだ関を病気と見なしていて、真に師父を信じ、大法を信じることが出来ないからです。私たちの体が玄関設位と帰位する時は見えないばかりか、非常に辛く感じますが、もしかしたらそれらは良いことかも知れませんね」と、お爺さんにわかりやすく話して聞かせました。
その時私は突然、『轉法輪』「第六講」の内容を思い出しました。「煉功者はこれからの修煉においても、決して楽ではありません。多くの功が身体に現われてきますが、いずれも強烈なもので、しかも身体の中を動き回りますので、あれこれ具合が悪いと感じるかも知れません。具合が悪いと感じるのは、常に病気にかかるのを恐れているせいです。本当のところは、身体の中にそれほど強烈なものまで現われてきたのであって、現われたものはみな功や、功能ばかりで、さらに多くの生命体もあります。それらのものが動き出すと、身体が痒くなったり、痛くなったり、辛く感じたりするのです」[3] の箇所や「身体が高エネルギー物質によって取り替えられるまでは、ずっとそういう状態が続きますが、それはもともと良いことです」[3] の箇所を私が暗唱してあげたら、お爺さんは呆気(あっけ)にとられてしばらくの間言葉がなく、やっと体調が悪いことは良いことだと分かりました。そして、修煉者として自分を見なし、常人と見なすべきではないと悟ったようです。
四、法を暗唱することで 速やかに入静できるようになる
修煉をし始めた時、一番耐え難いのは坐禅でした。それを、師父は「足を組んで坐禅していると、足が痛み痺れてきます。時間が長くなると、心が乱れ始め、しかも次第に激しくなっていきます」[3] 、「坐禅をする時、痛みだすとすぐ足を崩してやめようとする人がいます。そして、坐禅の時間が少しでも長くなると、耐えられない人もいます。しかし、足を崩すと、せっかくの煉功が無駄になってしまいます」[3] と、このように教えてくださいました。
この段落を私は泣きながら暗唱しました。師父の話はなんとよく言い得たことでしょう。当時私は全くその通りでした。しかし師父はまたおっしゃいました。「ですから、『其の心志を苦しめる』ことこそ本当に次元を向上させるための鍵です」[3] 従って坐禅をし始めた時、私はいつも心性を向上することによって、坐禅の時間を延ばしていました。もし足が痛くてたまらなくなると自分の心性が低いわけだと分かって、また学法し、心を修めて心性を向上させました。そして知らないうちに苦労する感じがなくなり、その関を通り抜けました。でもずっと師父が教えてくださった、入静した際の美妙な状態には達することができず、坐禅する時は常に時間があとどのくらい残っているのかだけを考えていました。
法を暗唱しはじめたのはただ暗唱すべきだと思っていたからで、進度などは気にしていませんでした。しかし思いつかなかったことに、坐禅して煉功する時、すぐに入静できました。師父がおっしゃったことはすべて本当です。「そこに坐ると、自分が卵の殻の中に坐っているかのような素晴らしさ、非常にいい気持ちを感じ、自分が煉功していると分かっていますが、全身が動けないかのように感じる、こういう状態が現われます」[3] 今は毎回坐禅する時、この部分の法が頭の中に現れ、非常に美妙でいい気持ちを覚えます。
五、法の暗唱で欲望が抑制できるようになる
法を暗唱してからは、知らないうちにもう一つの変化が生じました。師父はおっしゃいました。 「先日、わたしは『佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる』ということをお話ししましたが、それはつまり、われわれの身体から発散されたエネルギーが、あらゆる間違った状態を正すことができるということです。したがって、この場の働きの下で、あなたがそういうことを考えないかぎり、知らずしらずのうちにあなたの配偶者も制約を受けるようになります。あなたがそんな念を起こさなければ、あなたはそんな念を起こすわけもないのですが、相手もそのことを思いつきません」[3] 思いがけないことに、これら全てが私自身の体に自ずと現れてきました。
この間、法を暗唱する中でトラブルに遭ったら、自ずと法の中ではどう教えられているのか、自分はどうするべきかを考えます。私は自分の恨む心が徐々に放下できたことに気づきました。以前は夫が家事を全くしてくれず、自分が多くの家事をしていることに心のバランスが取れず、常に文句を言っていました。しかし、法を暗唱するようになると知らないうちに自分の足りない所だけを探すようになり、心境が和やかになりました。口を修めることを重視し始めると、突然、自分の意見をあまり多く発表したくなくなり、ただ黙々と自分を修め、やるべきことをしっかりやるようになりました。
六、法の暗唱は私にとって真の修煉の始まりなので 法を続けて暗唱する
初めて『轉法輪』を暗唱するのに、大体1年の時間がかかりました。明慧ネット上の交流で、1人の同修がもう30回も暗唱し、『轉法輪』の全体がはっきりと眼の前に現れるようになったと聞き、同修と競って法を学び、修煉するために、私は続けて『轉法輪』を再度、暗唱し始めています。法を暗唱することによって、私の考えは一心不乱に集中できるようになりました。法に溶け込んだ状態はこの上なく神聖で、まるでこれこそ正に、私の真の修煉の始まりであると認識できました!!
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「その心志を苦しめる」
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟』「笑う」
[3] 李洪志師父の著作」:『轉法輪』
[4] 李洪志師父の経文:『二〇一八年ワシントンDCでの説法』