文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年3月21日】重い病気にかかった同修Aさんを見舞いに行ったとき、Aさんは私に自分の人生を振り返って語りました。仕事、生活、修煉において嘗めた苦しみ、成績、収穫、修煉者として感じた幸せ、師父について修煉をやり遂げる決心などに言及して、自分は今、生死の関を乗り越えようとしていると言いました。
2人は久しぶりに会った親友が昔話をしているようで、喋っているのは全て修煉の事ですが、しかし2人の間に何かが隔たっており、私はAさんの本当の考えを捉えることができなかったのです。どのように彼を助けたら良いかだけを考えましたが、私は内に向けて自分を探すことを忘れて、自分の修煉がよく出来ていると思いました。
今振り返ってみると、当時のAさんにも「自分の修煉がよく出来た」という自惚れる心が大いにあったと思います。自惚れる人が話すときの態度を私はよく知っています。私が心の中で自分を褒めて自慢するときの態度に、Aさんの態度がそれほど似ていたからです!
本当に修煉がよくできた修煉者はきっと「自分の修煉はよく出来た」とは思わず、そう思うことはまさしく修煉に漏れがある現れだと考えましたが、しかしどこが悪いか考えていませんでしたし、「自分の心から魔が生じること」が自分に関係があるかどうかも考えたことがありませんでした。
その後、家庭内のトラブルがなかなか解決できず窮地に陥ってから、やっと自分を探し始め、数年間の心をえぐるような魔難を経て、やっと「自分は間違っていない、自分は正しい」という思いの背後に隠れた人心と執着を発見し、思想に存在あるさまざまな党文化、変異した観念、習慣、思想業力を発見しました。「自分の修煉はよく出来ている」という心はその中の一つです。実は、個人の些細な進歩、成績はすべて偉大な師父と大法が成し遂げて下さったもので、自分にあったのは、大法に同化して、師を助けて衆生を救う信念のほかは、ただ数え切れないほどの業力と執着でした。
「自分の修煉はよく出来た」と思い始めるのは「自分の心から魔が生じること」の兆候であると今になってやっと分かりました。もう一度『轉法輪』の「自分の心から魔が生じること」の部分を読んで、それに照らし合わせたら、自分にも同じ問題が存在していると気づきました。無条件に内に向けて自分を探すことができず、同修の意見に耳を傾けず、怒ってよく周囲の人と口論するのは、いずれも「自分の修煉はよく出来ている」と思う心に関係があります。ずっと自分の気性が強く、よくかんしゃくを起こすことに悩んでいますが、その根本原因は「自分の修煉はよく出来た」という心にあることを、今日になってやっと悟りました。
常人が挫折するとき、「私にはできる、頑張れ」のような言葉で勇気づけるのは問題ありません。能力があり実績を出したとき、自分が良くできたと自慢するのも問題ないと思います。常人から出発して、常人の中で修煉する私たちは、魔難を経験して、大法を実証する事をたくさん行ない、多くの法理を理解し悟って、人心を識別し除去すれば、修煉に対して多くの収穫と心得があると感じました……。そのとき、自然に「自分の修煉はよく出来た」と思っても別に問題ないと今まで私はずっと思っていました。しかし、多くの関に修煉の道を阻まれて、Aさんとの死別を経験してから、今の私は「自分の修煉はよく出来ている」という心の危害がやっと分かりました。その心理の背後に強い自我が存在し、きっとその後は「自分の心から魔が生じること」になるのです。修煉者としてその自惚れる心を警戒しなければなりません。その道理が分かったのは遅く、Aさんを確実に助けられなかったことを残念に思います。
「自分の修煉はよく出来た」という心を破って「自分の心から魔が生じること」を避けるには、内に向けて探すほかありません。無条件に自分を探し修めて、強い自我を放下してこそ、はじめて正しく修煉の道を歩むことができるのです。