文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年5月10日】大法弟子は常人の中で修煉しています。個人の修煉を怠り、一思一念に注意しなければ、常人と同じようになってしまいます。
数日前、私が勤めている学校で、教師に指導要領を提出するようにという指示がありました。ある年配の同僚は、彼のその業務を私に頼みました。私は教科書の科目順に一学期の授業計画を作ってメールで送りました。授業計画を渡す前に、この同僚にまた、仕事の日程によってそれを分類するように頼まれました。私は嫌だと思いました。授業計画の給与は授業時間によって定められており、この同僚の方法は私が仕事をし、お金を受け取るのはその同僚ではないでしょうか? 私はしたくなかったのですが、自分は修煉者であり、やむを得ず完成しました。
その後、同僚数人が授業計画について話していた時、怒りを修めていなかった私は口をはさみ、「ほら、あの先生をごらんなさい! 私が全学期の授業計画をしただけでなく、仕事の日程による分類までしたのです。これは私がおいしい食事を作り、そのうえ、盛り付けまでなければならないということです!」と言いました。
私の話を聞いた同僚はみな舌打ちして不満を漏らしました。その時、私は自分が間違っていることに気付きました。これは人をけなし、自分をもちあげているのではないでしょうか? 怨恨、非難、嫉妬・・・、私の言葉数は多くなかったのですが、どれほど多くの常人の執着心が含まれていたことでしょう! これで修煉者と言えるでしょうか? 古代の人々も「自分の長所を自慢したり、他人の短所も暴いたりしない」と言っています。私の言動は常人にも及ばないのではないでしょうか?
この件は私に注意を喚起しました。現在、大法弟子は全て異なる環境の中でさまざまな方法で真相を伝え、衆生を救い済度し、大法を実証しています。数多くの大法弟子の身分も公開しました。大法弟子は宇宙のそれぞれの天体の神仏の焦点であり、そして、世間という大舞台で世の人々が関心を持つ対象でもあります。世の人々は大法弟子の言動を通して大法を評価するのです。ですから、私たちは自分の言動に注意し、自分の言動の誤りにより、大法に悪影響をもたらさないようにしなければなりません。