文╱海外の青年弟子
【明慧日本2019年5月17日】最近多くの青年弟子の結婚生活を見て、自分の修煉経験を踏まえながら、夫婦が修煉者の場合の修煉について、いろいろ考えてみました。
大法弟子の結婚は常人とは異なります。形式では同じように見えても、本質的にはかなり違います。修煉者として、情は必ず修めなければならないものです。男女の情以外に、親族の情や同修の情なども結婚という修煉形式に反映されます。トラブルに遇った時は内に向けて探さなければならず、夫婦が同修の場合は状況がより複雑になります。特に海外の場合、迫害の圧力をそれほど直接感じないため、法に則って一思一念を着実に修めていなければ人心が拡大されやすく、人心が大きくなれば、人を救うことに影響を与えてしまいます。
夫婦が修煉者という関係では他の同修と比べ、より密接な関係にあるため、二人は一つと言ってもいいものです。そうした場合、夫婦の一人は精進しており、もう一人はあまり精進していない、或いは全く精進していない場合は、摩擦が起きやすくなります。例えば、一人は人を救う過程で全力を尽くして精進していると、時には様々な難関に遭遇します。そうすると、一つになっているもう一人の同修も一緒にその圧力に耐えなければなりません。もし、このような本質的なことを見抜いていなければ、精進していない人は人心につられ、精進している同修の足を引っ張ってしまいます。一方、精進している同修もこの問題をはっきりと認識できなければ、相手のことを面倒だと思い、不平不満をこぼしてしまうでしょう。これらの人心は早いうちに正されなければ、時間が経ってしまうと、互いに隔たりができてしまいます。もちろん、精進したりしなかったりするのは段階的に起きるもので、ずっと固定して変わらないものではありません。
最も良い解決法は「内に向けて探す」ことです。そして、修煉者同士の夫婦の場合、お互いに修煉状態に関心を持ち、情から跳びだし、同修として互いに励まし合い、助け合うのが一番良い修煉状態ではないでしょうか。
もしお互いに精進している同修であれば、プロジェクトの中で、フルタイムで働くかボランティアで関わるかに関係なく、きっと多忙で時間が足りないでしょう。その場合、相手に協力できるかどうか、自我を放下できるかどうかは大きな試練です。夫婦でない同修の場合、プロジェクトの中でトラブルに遇えば、自分が修煉者であることを自覚し、内に向けて探すことができますが、夫婦の場合は、日常生活も絡んでいるため状況がより複雑になります。お互いの生活の中で、自我を放下し相手のことを考えなければなりません。そして生活の面だけでなく、相手の法を実証するプロジェクトのことも考えなければなりません。法を実証する中で妨害や圧力に遭遇した時、相手を真に同修と見なし、真に正念を持って支え、共に難関を乗り越えることは最も大事なことです。
師父は説法の中で、「同じ心にて世間に来る 法を得て已に先に在り 他日天を飛 んで去る 自在にして法は無辺」[1] と説かれました。私達が本当に自我を放下した時、すでに同じ心となります。二人の大法弟子の力が本当に一つになった時、その勢いは誰も阻むことはできません。
少しの浅い体得です。法に則っていない所があれば、同修の慈悲なるご叱正をお願いします。合掌。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「願を了す」