文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年5月19日】ある同修が「怨恨心の源は嫉妬心である」と言いました。私もその通りだと思います。なぜなら、私自身も先に嫉妬心を取り除いてから、怨恨心も自然になくなったからです。この部分の修煉体験について、皆さんと交流したいと思います。
元夫への怨恨心を修める
私は元夫に酷く傷つけられたため、10年以上も前に離婚しましたが、夫に対する怨恨心はとても深かったのです。大法の法理の指導の下で、人と人との間には因果関係が存在していることが分かり、表面上では憎んではいないものの、やはり時々、怨恨の心理が現れてきて、場合によっては、かなり強い感情が現れたりもしました。
留置場に不法に拘禁された私は、昨年、釈放されたあと実家で暮らしていました。心を静めて法を暗唱し、煉功も欠かさずに煉り、そして、内に向けて自分を探したところ、絶えず新しい法理が現れました。「嫉妬心」という章を勉強した時「なぜこれまで自分の嫉妬心に気づかなかったのか?」と疑問に思いました。嫉妬心が中国人にこれほど強く根付いているものなら、私にもきっとあるに違いない。しかし、一体どこに存在しているのでしょうか? これまで誰かに嫉妬した覚えはなかったはず……
そして翌日のお昼時に、息子が、昨日、元夫に理髪店に連れて行ってもらったことや、その美容師が夫の友人であること、夫にはたくさんの友人がいることなどを話してくれました。息子の話を聞いて思わず「ふん」と鼻を鳴らし「お金を払えばみんな友達さ。お金がなければ、誰も見向きもしないわ! その美容師も考えたものだね。こんなの、切ったうちに入らないわ。またすぐ切りに行かなければならないじゃないの」と息子の頭をなでながら言いました。しかし、息子の不機嫌な顔を見て、ハッと自分の嫉妬心に気づきました。すぐに「ごめんなさいね、他人を見下す心理が出ていたわ」と反省すると、息子は「うん、そうだね」と頷きました。
その時は「嫉妬心」という言葉を口にしていませんでした。これまで嫉妬心を最も悪い執着心と見なしていたため、息子の前では言いたくなかったのです。しかし、これは確かに嫉妬心なのです。昨日、私が悟らないのを見た師父が、今日、わざわざ息子の口を借りて教えてくださったのです。
元夫にたくさんの友人がいたことに嫉妬し、そして、その美容師がたくさんお金を儲けていることにも嫉妬していました。なぜこのように思ったのでしょう? 相手が友人に恵まれて、お金にも困っていないなら、喜ばしいことではないでしょうか? 修煉者として、それを気にしているようでは、名誉や利益に執着しているということではないでしょうか? それから、元夫が良い生活を送っていることを知って、なぜ私は嬉しくないと感じたのでしょう? それは、以前、夫があまりにも私を酷く傷つけたから、彼に対して深い怨恨の心が存在しているからなのです。だから、夫が電話をしてきた時、いつも怒りを感じて、電話に出たくないのです。
その日から、発正念で自分自身を浄化する時に、嫉妬心と怨恨心に力を入れるようにしました。しばらくして、元夫から電話がかかって来た時、その日は珍しく電話に出ました。受話器を手に取った瞬間「怨恨心を取り除くのよ」と自分に言い聞かせました。彼と話している時の自分の口調は、十何年間の中で、その日が一番穏やかで、自分でも驚きました。それ以来、何度か電話がかかってきて、夫と話しましたが、毎回、穏やかな気持ちで話せたので、師父が私の怨恨心を取り除いてくださったと悟りました。
しかし、後に再び怨恨心が現れてきて、昔、元夫に傷つけられたことで頭の中がいっぱいになりました。高い次元では、傷つくことは「良いこと」ではないでしょうか? 彼に感謝すべきなのです。このように思うと、直ちに怨恨心が消えてなくなり、それ以来、元夫への怨恨心は一度も現れませんでした。
両親への怨恨を取り除く
母親は非常に短気で、少しでも不愉快になるとすぐに怒り出します。父親は口下手で、私が訳も分からず母親に怒られ、責められている時に、一度も私を慰めなかったため、両親から父母愛や、家庭の心地よさを一度も感じたことがありませんでした。幼い頃に「あなたが年を取ったら、世話なんかしないわよ」と母親に言った覚えがあります。しかし、これを子供の戯言として受け止めた母は全く気にしませんでした。私は元々内気で敏感な性格でした。母親の皮肉やあざ笑うような口調に酷く傷つけられ、死さえ考えたことがあり、私を産んだ両親の事を心の底から憎んでいたのです。後に、私の婚姻においても良い働きをしたことがなく、両親が原因で今の生活がめちゃくちゃになったと思っていました。
法を得てから、全てのことに因果関係が存在していることを知ったので、この情を取り除こうとしました。表では、両親に言われたことを何も言い返さずに行っているものの、やはり、心のどこかで隔たりを感じ、それはまさに積み重なった怨恨なのです!
相手を見下すことは強い嫉妬心の表れであるということを、学法を通じて悟りました。内に向けて自分を探したところ、現状に甘んじて、大法の本を読んだにもかかわらず、修煉しようとしない両親のことが気に入らないという心理があることに気づきました。両親に修煉させようと思っていること自体「情」なのです。師父は「家族のために厄払いを求めたり、病を治すことを求めたりすることさえも、家族への情に対する執着なのです。他人の運命を左右しようとしても、人間にはそれぞれ定められた運命があります!」 [1]と説かれました。
父も母もある程度社会的地位を持ち、高等教育を受けてきたので、家族に対して強い責任感を感じています。両親が真面目に毎日を過ごしていなければ、私も安定した生活を送ることができなかったでしょう。年を取った両親は、毎日、私や孫に良いものを食べさせようとしており、また、留置場から帰って来ても私を何一つ責めませんでした。それなのに、両親を恨んでいるなど、このような自分は修煉者と言えるでしょうか? 常人の中の良い人のレベルにも達していないのです! この点に気づいた私は泣き出しました。長い間、両親への怨恨心が止めどなく溢れ出す涙と自責の中で崩れていったのです。それ以来、凍っていた心が温かくなり、両親との生活も穏やかになり、母親もあまり怒らなくなりました。
以上、二つの事例を持って怨恨心と嫉妬心の関連性を説明できたと思います。実際、多くの執着心にはそれぞれ関連性を持っており、ほとんど「名誉、利益、情」が基で、その源は「私」なのです。複雑な人心が混ざって、自然な形となり、とても察しにくいものです。自分の言動や思想の一つ一つを法と照らし合わせながら、内に向けて探すことで、少しずつ人心を取り除くことができるのです。
更に内に向けて自分を探す
私は以下の六つの情況に遭った時は内に向けて自分を探します。1、トラブルに遭った時 2、他人の執着心が見えた時 3、情緒(怒り、楽しみ、悲しみ、煩悩など)が大きく揺れた時 4、学法や煉功、発正念中に、頭の中に雑念が生じた時 5、何かを行っている最中に、頭の中は別の事を考えている時 6、夢を見た時
以上のような場合に遭うと、主な執着心だけでなく、その他様々な人心も見つかります。そして、直ちに見つけた人心などをスマホにメモし、発正念の時に、これらの人心を取り除くことに力を入れます。また、普段の生活においても、これらの人心が現れるとすぐに抑制するので、およそ2、3日で消えてなくなるのです。
けれど、比較的に強い執着心を取り除くには時間がかかり、そして、繰り返し現れてくることもあります。執着心を取り除く時は、主意識がはっきりして、正念を固めなければなりません。頭の中にあれこれのことが浮かび上がっても、それを抑制し、必ず取り除くことができると信じなければなりません。しっかりと法を勉強していなければ、到底できないことでしょう。しかし、我々は大法弟子であり、師父が見守ってくださっているのです。
例えば、ある日、ある同修がお昼時の発正念をすると、彼女の夫が邪魔をしてくることについて、2人で交流しました。「その時は怒ったよ」と言った彼女に、私は「師父は『それでは忍を守れなかったことになります。われわれは真・善・忍を重んじますが、そんなことをすれば善のかけらもなくなります』 [1]と説かれています。あなたは自分を探し、心性を修めなければならないわ。あなたとは昔からの知り合いだけど、あまり自分を探していないようだし、心性を修めてもいないわね。毎日学法しているし、明慧週刊も読んでいるみたいだけど、内に向けて自分を探すことができてないわ。あなたに歓喜心、顕示心理、嫉妬心、怨恨心……」と、彼女に気づいてもらい、向上してもらいたくて一気にたくさんのことを彼女に話しました。私の話を聞いた彼女は何も言いませんでした。しかし、別れる時、彼女は再び自分の夫の文句を言ったのです。何も変わっていない、そしていつも通りの同修を見て、どうやら、自分が言ったことは全て無駄だったようです。
帰宅して、先ほどの出来事を良く考えてみたところ、他人を変えたいという強烈な心理に気づきました。この人心があるから、彼女はあのような態度を取ったのです。変わってほしいと思うほど、相手は変わってくれません。私の人心が同修の向上を妨げているのです。大法弟子一人一人に師父の法身がついており、皆、それぞれ異なる次元の中で修煉しているのです。私が執着するまでもありません。まさか師父よりも面倒見が良いというのですか? なんて身の程知らずでしょう! 大法の法理は計り知れないもので、自分の認識が必ずしも正しいというわけではないのです。内に向けて自分を探したところ、同時に、嫉妬心や顕示心理、自我に執着する心理なども見つかったので、これら全てをメモして、重点的に発正念をしました。
時には、細かいところまで探っていかないと気づかない執着心もあります。例えば、どうすれば効果的に家事をこなせるか、出先での言動がしっかりしているかどうか、今、行っている大法の項目について、どうすればもっと効率を上げられるか、真相を伝える時、どうすれば相手に理解してもらえるか、交流文章をどう書いていくかなど、学法や煉功、発正念の時、これらのことに妨害されて、心が静まりません。長い間、その根源が見つかりませんでしたが、最近になってようやく悟りました。物事をよく行うことに執着する心理なのです。同時に、仕事に執着する心理や顕示心理、名誉を求める心理、自我に執着する心理など、様々な人心が中に含まれているのです。「修は己にありて、功は師にあり」 [1]なので「人為的にある目標に達しようと思っても達せないのです」 [1]。これらの人心を探し出して取り除いてからは、心を静めることができました。
師父は「しかもその時、あなたは耐え忍んでいる間、それを気にかけずに淡々と受け止めていられたかも知れません」 [1]と説かれました。普段から真面目に法を勉強し、地道に心を修めていくことで、ようやくできるのです。思想の一つ一つまで修めていけば、次第にトラブルも減少していくのです。人心があるからトラブルが生じるのです。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』