文/フランスの大法弟子
【明慧日本2019年6月7日】
師父 こんにちは!
明慧の同修たち こんにちは!
私は法を得て間もなく母の紹介で、明慧のプロジェクトに参加しました。最初は文章の翻訳だけでしたが、間もなく校正もやらせてもらいました。
ここ数年、明慧をやることはもはや私の生活の一部となり、明慧の文章を読まない、翻訳や校正をしない日は一日もありませんでした。私は全世界の大法弟子と繋がっているという感じです。私にとって、明慧ネットの仕事は大法弟子全体の脈を測っているみたいで、まるで原子炉にいるようです。
十六年間、もっとも辛いとき、明慧ネットが難を乗り越えさせてくれました。私は自分の生命の本質と、再び繋がることができました。
私は母がこの世を去ったとき、大きな悲しみに包まれました。1年後、ある交流文章を目にしました。それはある若い中国人の同修が書いたものでした。彼は中国にいたとき、大法を修煉する母親の元で育ちました。それからカナダへ行って修煉を怠ってしまい、クラスメイトと一緒に遊ぶことを好むようになりました。大学を卒業したある日、師父の説法を読み、非常に考えさせられました。そして、「僕はいったい何をやっているんだ。自分の立場を選ばなければならない。いったい僕は修煉者なのか? それとも修煉者の息子なのか?」と自問自答したという、この文章に感心し、私もまた、「自分は修煉者なのか、それとも修煉者の娘なのか」と問い詰めました。結論はいうまでもありません。悲しみは去っていき、暖かくて強い力を感じました。まるで本当の自分の家の帰り道を見つけたようでした。
自我を無くす
私が明慧を始めた当初、完全に英語通りにフランス語に翻訳するように言われました。私は文字通り翻訳することに、非常に抵抗がありました。明慧の文章を読むときにも非常に抵抗があり、「これはフランス語ではない。何を言っているのかさっぱりわからない」など、マイナスの考えが私の頭の中を過(よ)ぎりました。しかし、このプロジェクトからは離れたくありませんでした。
翻訳にまつわるエピソード
私が修煉を始めた頃、「フランス語の『轉法輪』はあまりよく翻訳されていない」と思いました。ある文には動詞がなく、何を言っているのかわかりませんでした。とにかく私から見て、あまり良いフランス語ではありませんでした。新しい翻訳のバージョンが出てきたとき、私は非常に興奮しました。やっといいもの、よりいい翻訳が見られるようになりました。
しかしある日、なぜかわかりませんが、パソコンを開いてクリックしたのは、以前の翻訳バージョンでした。驚いたことに、翻訳がよくないと感じませんでした。私はあとから悟りました。大法が見せているのはその内容であり、どのバージョンも同じく素晴らしいのです。大事なのは翻訳の問題ではなく、法に従っているかどうかなのです。
このことは、自分の執着を放下するべきだと悟らせてくれました。例えば、自分の翻訳のうまさに執着したり、仕事においての重要さをアピールしたり、「私がどれだけうまく翻訳、校正をやっているか」などを思うとき、自我を放下しなければならないことがわかりました。
段々と私は、自分のためになるから、明慧というネットのためにするようになりました。
文字通りに翻訳する過程で、私の自我が露呈し、試練を受けました。それによって、自分の深い執着である自分を証明する心、人に認められたい心、自分がやっていることを見られたいとか、自分がいかに大事かという心などを無くすことができました。今は私が校正または翻訳において良くできている時には、淡々と喜ぶだけです。私の仕事がよく出来たから自分の価値が実現されたのではなく、私の校正や翻訳によって、私たちの明慧ネットがより完璧に、そして、さらによい効果を果たすことが出来るようになったからであると思います。
嫉妬心を無くす
私の「嫉妬心」は段階的に暴露されました。まるでそれぞれの次元において、「嫉妬心」を無くさなければなりませんでした。無くせば、しばらく思い起こしませんが、次の次元でまた現れてきました。ある時、ただ心の中が気持ち悪くて、どうしてなのかわかりませんでした。最後にこれは「嫉妬心」が原因だとわかりました。これは私の修煉において最初の「難」であり、そして潮のように、向上する過程で波のように打ってきました。
「嫉妬心」はそんなに簡単には見つかりませんでした。それは様々な形で現れます。「闘争心」もその一つです。この交流文章を書くとき、私は辞書で「闘争心」の定義を調べました。辞書には「あるグループに所属する数人のメンバーが、同一の目標に到達するためにお互い敵対視し、競争心を持ち、このような態度をとること」と書いてありました。私たちのグループには敵対する人がいるのでしょうか? 競争相手になるのでしょうか?
私の「闘争心」は私がグループの仕事をするとき、他のメンバーより、より多くの校正をしようとする心に反映されます。掲載される文章が足りるかどうかではなく、自分が他の人より多くできたかどうかを見たいだけでした。今では他の人のやった量を見ても、私は焦らずに穏やかな心で、自分のやるべきことを淡々と行なうようになりました。
私は他の面における「闘争心」も完全になくなったと思いました。ある時の発正念の際、私はグループの当時の「協調人」を思い出し、そして、「姜子牙」を思い出しました。どうして姜子牙を思い出したのでしょうか? それは、師父が「嫉妬心」の説法において、姜子牙に言及されていました。しかし、彼と何の関係があるのかわからず、発正念をしてから、『轉法輪』を開くと、第七講にこう書いてありました。
師父は「物語を一つお話しましょう。『封神演義』の中の申公豹は、姜子牙のことを年も取ったし能力もないと見ていましたが、しかし元始天尊はこの姜子牙に神を封じさせました」[1] と説かれていました。
私はハッとしました。私が彼のことを如何によく思っていないか、彼の問題の処理が如何に間違っていたかをみて、あれこれの問題を解決するときに、如何に自分が間違っていたかということがわかり、問題の見方を誤っていました。すべて私の心にあった文句をいう心が一瞬で消えてなくなりました。この法を通して、師父に悟らせていただきました。私たちの「協調人」は彼のできる範囲で、できる限りのことをしている、そこには彼の限界と神の一面があるということです。私は彼にマイナスな考えを持つのではなく、私の出来ることをフォローする(あとから補う)ということを学びました。
これらを学んだ私は身も心もすべてが軽やかになり、彼と闘争することをやめました。私たちは競争相手ではなく、補い合う関係なのです。彼には彼の、私には私の役割があります。法理から悟らせてくださった師父に感謝いたします。
グリーティングカードの翻訳
グリーティングカードの翻訳期間は私たちにとって特別なものです。技術的な問題点を克服すれば(組版、固定された形式、写真の修正)、私は心の中に大きな喜びを感じます。毎年4回、全世界の大法弟子から師父にグリーティングカードが送られ、感謝を込めた祝辞は非常に感動的で、人の心に訴えてきます。大法弟子の崇高な敬意を表しています。
ときどき夜中まで翻訳し、非常に集中しなければなりません。私はこの仕事ができることに心底から喜びと感謝でいっぱいです。最近の翻訳ではそれらの祝辞はまるで私の指先にあるかのようで、あまり考えなくても翻訳できてしまいます。弟子たちの感激や頑なな信念、師父に対する深い感謝と恩を感じ、深い尊敬が私の指先から流れるように出ていき、とても微妙で不思議な感覚です。私はただこの現象を観察しながら、ひたすらやるべきことを続けています。
最後に師父と皆さんに感謝を述べて、私の交流を終えたいと思います。私たちが一緒に歩んだこの険しい道が、長くても短かくても、偉大な師父と親愛なる同修たちに感謝の気持ちでいっぱいです。私たちの修煉環境は特殊な環境で、数千キロも離れていても明慧ネットで繋がっており、逆に、距離は同時に私たちを結ぶ強い力になっています。それは、世界のあらゆる所の大法弟子が明慧ネットのために精いっぱい働き、私たちの使命を心をこめて果たしているからです。
師父が明慧ネットの仕事を私たちに与えてださり、そしてさらに、見守ってくださっていることに深く、深く感謝いたします。 合掌
注:
[1] 李洪志师父の著作:『轉法輪』
(明慧二十周年法会の交流文章より抜粋、編集)