文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年7月19日】この数日、私はずっと明慧ネット法会の交流のラジオ番組を聞いています。同修たちが明慧ネットのために一生懸命働き、大法に責任を持ち、同修に対して責任を持ち、自分に対しても責任を持つ姿勢を深く尊敬しています。
私は明慧ネットに体験談を投稿したことがあります。当時、私は考え不足で「小さい事でも大法の威徳を表すことができ、師父の慈悲を表すことができる」と思い、時間の経過とともに、いくつかの小さな出来事を並べただけでした。
記事が明慧ネットで発表された後、明慧編集者が編集してくれた文章を、私は注意深く読みました。「ある文章は、前後の順番が調整され、また別な箇所では、不適切な段落が削除された」と気付きました。
編集された文章は、事件が起こる時間のスケールが大きくなり、全体的に読みやすく、文章の流れが首尾一貫していました。しかも正義感に溢れ、真・善・忍や法輪大法を実証することを前提にしていると感じました。
私は内に向けて探しました。「なぜ私は事前にここまで、考えることができなかったのでしょうか? 私は執着心を持ち、常人の感情を持ち、自分をアピールしたがっていた」と思いました。このような常人の感情が大法を実証する場にもたらしたものは、大法を汚してしまうことになります。
私は悲しくなり、大法に申し訳なく、師父に申し訳なく、しかも明慧ネットの同修たちの純潔な心の前に、自分がとても劣っていると実感しました。しばらく経つと私は、「このように悲しみ、気落ちすることは、すべて私自身ではない。悲しくなったのは、自分の中に深く隠されている、大法を借りて自分自身を顕示したい執着心があった。気落ちしたのは、自分の負けず嫌いの気持ちに満足できず、しかも、隠れていた嫉妬心があった」と思いました。
実は、本当の自分はとても喜んでいました。なぜなら私は、自分の執着心を見つけることができ、執着心を捕まえることができました。大法を修煉する過程で、さらに自分自身を回帰させ、自分を昇華させることができました。
しばらくして私は『明慧週刊』で再度この文章を見つけ、今度こそ私は、さらに大きく震撼し、さらに大きな衝撃を受けました。同修はコメントを書いてくれただけでなく、挿絵も描いてくれましたので、同修の用心深さに震撼し、相手に対する思いやりを教わりました。 修煉中、このようなことの表面だけ見れば、この文章は同修たちに修正されたのですが、実際に同修たちは、一つの堅固で崩せない整体であることを示しました! 私は突然、「もしかしてこれらも、大法の修煉過程での無形の表現方法かもしれない」と悟りました。
もう一度私は、私と同修(家族)との間の心性トラブルの体験談を投稿しました。その文章が発表されたとき、私の同修に対する表現方法が良くなかった箇所が削除されたとわかり、私は突然、師父のある説法の「師父として、私は皆さんが修煉の中でした間違いにこだわったことはなく、皆さんが行なった良いことと成果だけを見ています。大法弟子にとって、皆さんも修煉と比類のない邪悪な迫害の中で乗り越えてきており、修煉の厳しさをよく分かっているので、間違いをした学習者をきっと理解できます」[1]を思い出しました。
これらは師父が要求される事であり、弟子として全力で従わなければなりません。従うことができなければ、私はまだ大法に同化できていなかったのです。実は、私はまだ心の中に、同修に対する不満の気持ちを持っているとわかりました。さらに私は自分の考えが、一つ一つ修煉にふさわしいかどうか、大法に従っているかどうかを認識し、私の修煉を大いに促進しました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨(三)』「至難の関から抜け出す」