文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年10月3日】長年大法修煉をして来ましたが、あまり精進していないことをとても恥ずかしく思いました。ここでは、師父の慈悲なるご済度とご加護に心から感謝いたします。
最近、法を学んだ時に少しの体得を得たため、それを同修達と分かち合いたいと思い、本文を書きました。
師父はずっと「修」と「煉」の二つがどちらも欠かせず、必ず「心」を修めながら、「功」を煉らなければならないと説かれました。表面上においては、師父のお言葉の意味が分ったようでしたが、実は「修」と「煉」の両者の関係について、やはりよく理解していませんでした。ある日、マニュアル車を運転していて、突然何か分かったような気がして、目からウロコが落ちたようでした。
例を挙げれば、心性を高めることはギアを入れるのと同じで、功を煉るのはアクセルを踏むのと同じと理解しました。つまり、ギアを上げて行きながら、同時にアクセルも踏むようにすれば、車は速く走行します。
もし心性を高めなければ、それはギアを上げていないのと同じで、いくらアクセルを踏んでも、スピードが上がらず、車は速く走行しません。つまり、私たちがよく体験したように、いくら功を煉っても、一所懸命に煉っても、法をしっかりと学んでいなければ、着実に修めていなければ、そして、常に法を持って自らを厳しく律していなければ、次元が上がらないのと同じことです。
同様に、ギアチェンジをしましたが、同時にアクセルを踏んでスピードをある程度上げなければ、エンジンの回転数が上がりません。そうした場合、たとえ無理やりにギアを上げても車はガタガタし、前へ前進するパワーがありません。要するに、アクセルを踏まなければ動力が伝わらず、低速ギアに戻って来るしかありません。これらのことは私達がよく出遇うことです。時には怠けていて十分に功を煉っておらず、体の疲れや痛みを恐れて功を演化させるように加持せず、本体の転化を加速させなければ、次元の向上もありません。
以上の二つのケースは私の修煉において、全部ありました。時には法をよく学んでいたら、煉功する時間が少なくなり、功をよく煉っていたら、法を学ぶ時間が少なくなりました。今から考えれば、とても恥ずかしい事で、師父に申し訳なく、同修達の注意と助けに対しても申し訳ないと思いました。車の運転から得たこの少しの体得は、法に対する理解を深めさせられました。これからは、必ず師父がおっしゃった通りに自分に厳しく要求し、真に「法」と「師」を信じることをやり遂げるようにしていきたいと思います!!
同修達の慈悲なるご叱正をお願いします。