文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年10月29日】私は子供のときから佛教の経典について興味があり、大きくなったら、更に古代の書籍や兵書や戦記などが好きで、よく読んでいました。私は記憶力が良く、普段の生活の中でよく「有能な人」と言われて、いい気になっていました。法輪大法を修煉してから、大法の奥深い法理に震撼し、自分の「能力」や「有能さ」について反省しました。
大法への迫害が始まる前に、私は既に『轉法輪』を1回暗記していました。1999年7月20日以後、学法による修煉の基礎があるため、最初のころは心の基点が正しく、気持ちも落ち着いていました。当時みなは主に「具体的にどうすればいいか」について迷っていました。状況について、法の中の「正法伝わりて 万魔攔ぐ 衆生を済度し 観念転ず 腐敗物は滅し 光明が顕れる」[1 ] のように、今は万魔が邪魔をしていると認識していました。私たちがやるべきことは衆生の観念と心を善に向けて変えることだと思っていました。もし、人々の脳に良くない思想や廃物がなければ、光明が顕われるでしょう。これは覚者が人を救い済度することで、当時私たちは心から真相を伝える重要さを認識していました。
その時、心の基点が正しく、環境が厳しいので、時々刻々法に照らして、少しの油断もしてはならず、何かあったら、すぐ内に向けて探したので、分からないことや解決できないことがなく、すべてのことが順調で、必要なものがあれば、すぐ手に入れることができ、短い期間で一部の局面を打開しました。
しかし、忙しくなったら、学法も少なくなり、人心も徐々に重くなって、頭の中にいつも「私でなければ、このことはできない。先にこのことを終わらせよう。私は古い学習者なので、学法が少なくても、能力に従って行なえばいい」という考えが浮かびました。その時、同修たちは資料点に頼り、資料点の担当者に頼っていました。
最初のころは、学法が少なければ、不安に感じますが、時間が経つと、不安になっても解決しないので、学法について緩めてしまいました。学法が足りないと、常人のように行なうようになり、執着心や見えない妨害が続々現れ、以前のように霊感がなくなり、時々頭に鉛を注がれたように重く、思惟への妨害が大きく、心も落ち着かなくなってしまいました。常に常人の謀略で問題を対応し、外から見れば、難関を突破しているようですが、実際は瓢箪を沈めたかと思えば、すぐ浮き上がってくるようでした。(一つの問題を解決したかと思えば、別の問題が起こる)物事を行なうことについて、能力についての執着により、自分がこの状態になる原因が思いつきません。出てきた魔難を突破すべき関と見て、師父の啓示も見えなくなり、長い間この状態ではい回って、なかなか突破できない状態でした。
物事を行なうことに執着すればするほど、旧勢力はもっと圧力をかけてきます。手伝ってほしい人や、やるべきことも多く増えて、表面上、いろいろ展開しているようですが、実際の修煉状態はますます追いつかなくなり、ますます危険になっていきました。その感覚は、重い台車を押し進めて、最初に人が台車を押し、徐々に台車が人を引っ張り、最後に人の力は限界になり、危険も伴ってきました。人間のずる賢さは別の次元で見れば何にもならず、表面で見れば、万に一つの間違いもないようですが、実際いくつか偶然のことに妨害されると、大きくつまづいてどっと転んでしまいました。再び立ち上がるのは既に数年後のことでした。
立ち上がったばかり時、まだ物事を行なうことに夢中でした。しかし、やるべきことがいつも多くて、落ち着いてしっかり法を勉強することができませんでした。ある日、常人の仕事が忙しくてたまらない時、突然頭の中に、「既に多くの時間を無駄にしたから、とにかくまず法をしっかり勉強しよう、そして法を実証することを按排したら、別のことを考えよう」という考えが浮かびました。その通りに行なうと、事情が突然変わり、すべてのことが解決しました。まるですぐ壁にぶつかるようでも、その壁が急に移動してなくなりました。このようなことが数回現れてから、私は人間世界がそもそも偽りの現象であり、按排されたことだと悟りました。学法自体がこれらの問題を解決できる要素があります。心を込めて学法し、法の基準に基づいて自分を正せば、環境は修煉状態に従って変わります。この時、私は初めて学法に頼って正法の道にしっかり歩んできた同修に感心しました。彼らはその偽りの現象に惑わされないで、師父を信じ、法を信じる信念をしっかり持っています。振り返って見ると、私はトラブルがあったら、他人の能力に執着し、学法を形式と見なし、実際は人間の偽り現象に惑わされ、法を深く信じることができませんでした。
私たちの能力は旧宇宙からきたものですが、今回の法を正す中で正され、大法に同化した才能しか新宇宙に入れません。正されなければ、未来に対して意味がなく、旧勢力と一緒に解体され、新宇宙に入ることができません。皆が人間の次元に降りて来て、単純に自分の能力を常人に見せるなら、何も変えたくない場合、法を実証することをやってもやらなくても同じではないでしょうか。旧勢力はこのように正法のことに対処するでしょう。学法から離れて、法に従って自分を正すことを離れると、自分の能力を発揮しても、旧勢力が按排した道を歩むことになるでしょう。「能力」や「仕事」に対する執着は、ちょうど旧勢力があなたをコントロールするハンドルになり、そのハンドルを放下できなければ、旧勢力を徹底的に否定することができません。私は常人の「能力」が両刃の剣であることを認識しました。正法の道を正しく歩めば、他人ができないことを行なうことができます。法に合わなければ、危険にも伴います。
法を実証することに対して、私たちは自分の能力を余すところなく発揮し、心を純正な状態に修めれば、このような能力を得ることができます。これは私個人の「能力」についての悟りです。
注:
[1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「新しく生ず」