文/中国の大法弟子
【明慧日本2019年12月14日】大法のプロジェクトには様々な人材が必要です。主役と脇役になる人もいれば、引き立て役も必要とされます。また、舞台の裏方のように雑用をするスタッフも必要です。要するに、全員が大法のプロジェクトをサポートする為にいるのです。
実は、誰が具体的にどの仕事に就くのか、どの役を務めるのかは重要でありません。大法のプロジェクトの仕事を成功させられるか否かが肝心なのです。ある同修が主役になれたのは大法のプロジェクトに主役が必要だから、主役になったのです。その同修はその役柄に相応しいので、主役になっただけなのです。それ以外の多くの補助の仕事は他の同修が分担しなければなりません。自分が適任の役を務めれいよいのです。自分がどんな経歴を持っていても、どんなに有能だとしても、どんな大役が適任だとしても、それは重要ではありません。大事なのは、今のこのプロジェクトが私達にどの役を求めているのか、どの目標に達成して欲しいのかです。自分が出来る限りのベストを尽くして、全員一丸となり、プロジェクト全体の成功をサポートしなければなりません、それこそ私達の成績なのです。
資源が限られているため、人員の出勤時間も異なります。また、プロジェクトの協調人の能力とプロジェクトに参与する同修の心性に限りがあるため、各方面においての資源不足はプロジェクトの実際の運営に支障をきたします。しかし、これらはみな取るに足らない支障なのです。肝心なのは、私達は自我を放下し、共にプロジェクトの成功に自分の力を貢献できるか否かです。常に至らない処に目を向け、トラブルを起こし、いざこざを引き起こしてはなりません。
実は、私達の目の前に繰り広げられている全てはみな師父が予め置かれていた布石なのかもしれません。魔難そのものは、もしかしたら本来、私達がどう対処するかを見る為に師父が利用されているだけかもしれません。また、魔難そのものは私達自身の状態或いは認識が正しくなかったため齎した外在の問題かもしれません。私達は何といっても修煉者であり、問題に直面する時、法を以って師とすることが出来るか、それとも人心で対処するかは、正に全ての同修にとって試練ではないでしょうか。
以前、私達は問題点を見つける時に、常に自分を中心に問題対策を見つけて、他人に接していたので、物事を明確に判断できなくなり、甚だしきに至っては、さらに様々な摩擦が生じます。例えば「このシーンの撮り方が良くなかった、このシーンは視聴者を惹きつける魅力が足りない、私ならもっとほかに相応しい役があるはず」等々。これらの私心と雑念は私達のプロジェクトにとって何のメリットもないだけでなく、摩擦を齎す可能性もあります、それこそ、大法のプロジェクトに混乱を招く根源なのです。
自分の視界を広げてみれば、夜空にあるこれほど多くの星が、どの星も永遠に煌めく星ではありません。自分達が輝きを競い争う時に太陽は昇り、自分達が輝きを失ってしまった瞬間、まるで一個人の大法弟子が大法と比較出来ないように、いくら煌めく星でも、輝く太陽には及ばないことを思い起こせるでしょう。
私達は物事を考える時に、まず他人の事を優先にして考えるべきです。個人の利益ではなく、プロジェクトの利益を優先にして考えることは、他人を優先にして考える行ないの一つの表れです。プロジェクトの仕事には全力を尽くさなければなりません。プロジェクトの決め事を全力でサポートし、全力で協力しなければなりません。私達は皆大法弟子であり、誰がどの役を務めるのか、どの職務に就くのかは重要ではありません、それは単なる形に過ぎません。如何に限られている大法弟子の資源をよりもっと上手く利用して、共に努力して、プロジェクトの仕事を完成し、衆生を救い済度する時に更に大きな作用を発揮することができ、より良い効果を得ることこそ、私達が重視すべきことです。
また神の視点から、重く見られているのは私達の心がどう動くかとです、それによって私達の本来の生命の真の位置が決められていくのだと思います。
救われることを期待している宇宙の衆生側の角度から見て、大法弟子が演じているのは衆生を救い済度している主役であり、大法のプロジェクトの仕事に就いている役柄ではありません。衆生の心の中で、最も感謝しているのは常人社会の主役を務めている人ではなく、最も心を込めて、力を尽くして自分達を救い済度し、自分達の為に全てを捧げる私達なのかもしれません。