文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年2月13日】旧勢力が大法弟子を迫害する主な方法は三つあります。一つ目は不当な連行によるもの、二つ目は嫌がらせ、三つ目は病業による迫害です。最初の二つは邪党の人員によって行なわれ、最後の一つは旧勢力が別の空間で直接行なうものです。
病業による迫害に遭ってしまう原因はいろいろありますが、確実に言えることが一つあります。「完全に法に則っている人を誰もが動かすことができません」[1] と師父は明確に仰いました。きっと師と法を信じることに問題があって、師父のお話に従順せず、人心が動かされることによってもたらされたものです。迫害に遭った同修の多くは修煉を怠けて安逸を求め、三つのことを積極的に行なわず、全力を使わず、精進せず、いかに常人生活を豊かにするかに気を取られてしまいました。
大法弟子は三つのことの全てをキチンと行なうことが出来ないとき、すでに師父が按排された道から逸脱し、旧勢力が按排した道に行ってしまったのです。あなたの怠ける度合が一定の程度に達し、旧勢力がそれを見て手を下す十分な口実になると考えたとき、別の空間で直接迫害を始動させ、病業が現れます。
法を正す時期の大法弟子として、宇宙の法が正される期間中に修煉し、法を正す師に手伝い衆生を救う重大な使命を担っています。その責任は非常に重いのです。もし、私たちが全力を尽くして法を実証せず、怠けて安逸を求めていれば、そのような大きな責任を担うことが出来るはずはありません。言い換えれば、怠けていて、安逸を求めるあなたは無責任であり、それによってもたらされる結果は、想像もつかず、以下のいくつかの方面に反映されます。
一、あなたが精進しなければ、法を正す師に手伝う真心が欠けていると言えます。
慈悲なる師父は地獄から私たちを掬い上げて除名され、私たちの身体を浄化され、歴史上、私たちが造った無数の業を代わって背負われ、私たちに無病で軽い身体を与えられ、法輪と修煉の機制を植え付けてくださり、さらに功や神通、各種の生命体を演化してくださり、修煉の中でずっと私たちを見守っておられます。これらは私たちが知っていることですが、私たちが知らないことも沢山あるでしょう。では、これほど多くのことをして頂いた私たちは、師父に対してどのように対応すべきでしょうか? もし、私たちが安逸を求めて頑張らず、最善を尽くさなければ、師父の慈悲なるご済度に申し訳が立つのでしょうか?
二、あなたが精進しなければ、自分の衆生を救いたくないということになります。
修煉者として、修めてよくできた身体の部分に対応する衆生たちは、すでに法に同化し、救われており、まだできていない部分の身体に対応する衆生たちは、まだ救われておらず、あなたがきちんと修めて彼らを救うことを切に待ち焦がれています。しかし、あなたはしっかり修めず、快適さを求めて怠けてしまい、これは自分の衆生の生命を児戯に等しいと見なすことではありませんか? このようにしているあなたは、衆生たちの主である資格があるのでしょうか?
三、あなたが精進しなければ、無責任になります。
宇宙の法が正される時期にあなたが大法弟子になり、衆生を救う責任はあなたの肩にかかっています。大法弟子の人数には限りがあり、全人類は大法弟子によって救われることを待っています。大法弟子の一人一人は一部の衆生を救う責任を担っており、あなたが救うべき衆生を救わなければ、彼らは救われる機会を失い、あなたの無責任さによって淘汰されてしまいます。
一部の同修の怠惰と安逸心をもたらした原因は主に二つあります。一つは苦を嘗めたくないことです。これには、以前は精進していて、法を実証する多くのことを行ない、多くの犠牲を払ってきた同修も含まれ、大法を実証するためにかなりの苦労をしてきたので、そろそろリラックスしてもいいかな、と考えたのでしょう。このような考えに支配されて、彼らは次第に怠けて安逸を求めてしまいます。実際、その考えは彼自身のものではなく、彼の主元神の考えではありません。それは人心であり、つまり、彼は人心に左右されてしまったのです。
歴史上、大法弟子たちは師父に追随し、法を正すための五千年の中国文明を切り開き、さまざまな役を演じ、生生世世ずっと苦を嘗め犠牲を払ってきました。
ある同修が自身の輪廻の経験について書いた文章を読んだ覚えがあります。歴史上、魏忠賢(ぎちゅうけん)という悪名高き宦官がいました。当時、誰もがこの役を演じようとしませんでした。なぜなら、多くの悪事を働くことを演じることは難しくありませんが、難しいのは、悪事をした後、その罪業を負わなければならないからです。この同修は正法の下準備のためということで、毅然としてこの役を引き受けました。魏忠賢の人生が終わった後、同修は別の空間で100年間凍えていて、世間の時間に換算すると25年ほどでした。冬に外出すると、手足が凍える経験は誰にもあると思いますが、それはほんの一瞬です。その同修は凍りつくような寒さの中で25年間ずっと凍えていて、死ぬこともできず、それこそ本当の酷刑でした! 罪業を消した後、その同修はまた輪廻に入り、繰り返し苦を嘗め、今生に至ったそうです。他の同修も同じく、人々の想像を絶する耐え難い苦しみに耐えて、今日まで歩んできたのではありませんか?
言い換えれば、長い歴史の中ですべての大法弟子は皆、数え切れないほどの困難を乗り越え、待ちに待った正法の始まりをやっと目にし、すべき事がまだきちんと出来ておらず、救うべき衆生をまだ全部救い終えていないうち、「苦労はもういい。そろそろ楽になりたい」という安逸を求める考えは、私たち自身の本当の考えなのでしょうか? 絶対にありえません!
皆さん考えてみてください。今日のために、私たちは歴史上幾千万年も苦を嘗めて来て、やっと本番に取り掛かるこの貴重な機会を手にしたのです。全力でなすべきことをきちんと行なうしかありません。あと数十年の苦を嘗めることは、それに比べれば、大したことではないのではありませんか?
同修の安逸を求める心を引き起こしたもう一つの原因は、常人の良い生活への追求と憧れです。
実は、人間の環境は正法の需要に応じて意図的に造られたもので、人々が修煉のために与えられた場所です。修煉の環境になるには、二つの要件を満たす必要があります。一つは迷いであり、もう一つは苦しみです。修煉者として、迷いの中で正念を起こし、苦しみの中でもずっと正念を持ち続けて、はじめて合格と言えます。このように真相が見えず、苦しみが満ちる環境の中で、いわゆる幸福な生活を探し求めることはどうして可能なのでしょうか?
この世に生きて、苦しい目に遭うことがなければ、すでに福ありきの人生です。しかし、天国のような幸せな生活を、人間は1日たりとも味わったことはないでしょう。「ここに座っていてとても身が軽く、心地が良い」と言う人がいますが、いくら身が軽くても体重がかかっており、身体を動かそうとすれば、力が要ります。しかし、神の身体には重量がなく、それこそが軽やかで自在であり、しかもその素晴らしさは永遠に続くものです。人間の環境は肥だめです。黄土は天人の糞であり、ここにあるすべては分子でできています。神の目に映るここは、泥と糞しかありません。はっきり言えば、私たちは泥と肥だめの中で生活しており、肥だめを居心地のよい住みかとみなし、この汚くて苦しい環境の中でいわゆる幸せな生活を追求し続けているのです。神から見れば、これは無知で可笑しいことでしょう!
実際、これは迷いの中にいて、宇宙の真相が見えないことによって引き起こされたことです。しかし、大法弟子はすでに師父から宇宙についての真相を教えられているのに、それでもまだ常人と同じく目覚めず、常人のように人間世界のいわゆる美しくて幸せな生活を求めるのなら、それではいけません。
「やり始めたからには、やり遂げなければなりません」。法を正すことが今日に至り、後戻りの機会はもうありません。大法弟子の人数は決まっており、人の入れ替えもできません。「私は大法弟子の責任を負うことが出来ないので、他のできる人と入れ替えたい」と言っても、すでにそのような機会はありません。当初、あなたは天上で誓約に署名し、今日その誓約を履行せず、人々を救う責任を負わなければ、世人が淘汰されることになり、あなたは重大な契約違反になります。あなた個人の精進と怠惰は、衆生の生死存亡に関わり、あなたが衆生を救うことに精を出さなければ、宇宙の衆生の生命を蔑(ないがし)ろにしているのと同じです。たとえ師父があなたを咎(とが)めなくても、天上の神々は見逃さないでしょう。旧勢力もそれを迫害の言い訳にして、安逸を求めるあなたに別の空間で病業を手配し、病気であなたを苦しめるでしょう。
本質はやはり善を修める問題です。
人間と神の本質的な違いは、人間は利己的であり、神は無私であるということです。人間が神になりたければ、「自我を放下する」という生死の関を乗り越えなければなりません。問題に出遭ったとき、自我を放下し、自分を考えず、自身の利益を図らないことが出来れば私心がなくなり、完全に他人を気遣うことができ、善をやり遂げることになります。自我がなければ無私になることができ、無私であれば求めることも恐れることもなくなり、自然に安逸を求めたり、苦を嘗めることを恐れたりしなくなるでしょう。つまり、人間がもっとも放下できないのは自我であり、自我を手放すことが出来れば何でも手放すことができます。いかなる執着もなくなれば「忍」の基準に達し、真心から他人のために考えることが出来れば「真」と「善」の基準に達することになり、つまり大法に同化したことになります。
自我への執着はすべての執着の根源です。顕示心や嫉妬心などにすぐに気づき、表面的な執着を取り除かなければなりませんが、根本的な執着も根こそぎ取り除く必要があります。表面的な執着だけを取り除き、自我への執着を無くさなければ、圓満成就には至らず、人間から神への根本的な変化を遂げることもできないでしょう。
自我を放下できなければ、自分のために思う私心が生まれ、人間に留まり、逆に、自我を放下できれば、自身を思う私心がなくなり、神になります。私心を持って大法を実証していば、人間が行動しているに過ぎず、逆に、私心を持たずに大法を実証することを行なえば、神の行為になります。法を正す師に手伝う中で、自我を放下し自分自身を考えず、ひたすらどうすれば法をよく実証できるかだけを考えていれば、うまく出来ないことはないでしょう。そのとき、旧勢力はあえて妨害することができず、師父も加持して下さるので、法を実証する道はきっと滞りなく、通じるものになるでしょう。
浮世に目を奪われ、帰り道が見えなくなってはいけません。世間の安逸に惑わされて、帰り道を急がなければ、法を正す最終日に他の同修が圓満して昇天しても、自分だけがこの世にとり残され、家に帰ることが出来なくなっていれば、後悔してもしきれないでしょう! 師父の慈悲なるご済度を大切にし、宇宙の衆生の生命、自分の天国の衆生の命を大切にし、生生世世自分が嘗めてきた苦痛や払った犠牲、法を実証するために歩んできた道を大切にし、自分と自分の衆生の未来を大切にし、かつてない正法修煉の機縁を大切にして精進しましょう。これがあなたにとっての唯一の選択肢です!
以上は、現段階での個人の悟りであり、妥当でない部分があれば、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇〇五年サンフランシスコ法会での説法』