【明慧日本2020年2月20日】修煉の中で時折、法理に従って対応することを忘れ、人心で物事を捉えたりすることがよくあります。
例えば、自分が刑務所に拘禁されていたとき、時々、親戚の中に、官職に就いている人がいたらいいのになあ、と思いました。官職の親戚がいれば、自分に対する迫害が減軽されるだろうと考えました。しかし、官職の親戚が誰もおらず現実を受け止めるしかないので、そんなとき、大法の中で、迫害をどのように否定するか、旧勢力の按排をどう否定するか、などを懸命に考えました。すると、正念に頼って乗り越えるようになりました。今回の迫害は人から人への迫害ではないと分かっていても、ふとした折に官職の親戚がいれば、迫害が減軽もしくは免除されるのではないか、とつい考えてしまいます。このような場合、法理をはっきりと認識できないのは常人のことに執着しているからです。逆に言えば、人脈がないということは、常人のいかなるものにも頼らず、大法だけを信じ、正しい信念を持って乗り越えるべきだと思います。常人の人脈を頼る心を放下しなければなりません。
もう一つ例を挙げます。人に法輪大法の真相を伝える際に、自信がありませんでした。いつも、自分が地位のある人間だったら、真相をスムーズに伝えることが出来るのに、と思って、長い間、常人の地位を羨ましく思っていました。しかし、自分が今も社会的な地位がなく、どん底の状態にいるのです。真相を伝える効果は、正念の強さと話の純粋さによって決まるものだ、と法理上でわかっていますが、時々、常人の富や地位を利用できたら真相を伝える自信も増すのに、とついつい考えていました。これは自分が、常人のものを重く見ているという重い人心の表れで、放下すべきものです。逆に言えば、財も地位もないから、常人のいかなるものにも頼らず、修煉者として修煉の道を正しく歩むべきだとういことになります。
最近、息子が帰省したのですが、友人宅に一泊してすぐに帰えりました。このことで、私はここまで育てたのに、普通なら真っ先に実家に帰り、両親に会うべきではないのか? 人の情は本当に信じられないものだ、と思いました。しかし修煉者としては、このような常人の情を淡泊にすべきです。私はこの情を重く見過ぎていました。人心が多すぎると思いました。息子がこのような行動をするのは、私にこれらの心を気づかせるためだとわかりました。
私の心には闇が潜んでいました。それは自分が迫害されたこと、自分に社会的地位がないこと、お金がないことによって生じたものでした。年末年始に地元に帰って同窓会に参加したときに、地位のある人の前では自分を大きく見せようと振る舞ったりすることがありました。もしかしたら、誰かが私の才能を見て機会を与え、それで地位と財を持つようになれるかもしれない、と考えたりもしたからです。これらの考えはまさに、常人の執着から生じたものです。
自分が足りないところはどこだろうか? 大法の修煉者として、劣等感やコンプレックスを抱かず、正々堂々と生きるべきです。運があるからこそ、法輪大法を学ぶことが出来たのではありませんか。幸運な人生を歩んでいるのではありませんか。どうして、いつも頭が上げられないのでしょうか、と考えたりします。
世間の人々は世の真実を知らないので、いつも我々修煉者を可哀想だと思っていますが、これは常人の認識です。しかし、なぜ自分も常人と同じような認識をするのでしょうか? 自分のどこが可哀想なのか、それは社会的地位がないことやお金がないことなのか? 常人から理解してもらえないことなのか? これらはすべて人心ではありませんか。世の中の常人はこれらを重く見てもよいのですが、修煉者の自分もなぜこのように重く見てしまうのでしょうか? 昔、修煉者がいる家は皆から「この家の人は徳を積んでいる」と言われていました。確かにその通りですが、現代の人は道徳水準が低下して、もうそのことがわからないのです。修煉者として真理を知り、生命の意義を知ることは本当に幸運なことです。毎日この喜びを噛みしめて物事を捉えなければならないのに、なぜ自分はそう出来ないのでしょうか?
考えれば考えるほど、自分が常人のものを重く見て、その重みによって腰が曲がり、思想まで侵されていたのだと気づきました。物事に対して大法で量ることが出来なくなっていたのです。大法弟子は各界にいて、各社会階層にもいますが、地位があり、お金があれば修煉できるのではなく、肝心なのはすべて心性の高さなのです。
人に認められたいというのは、常人の虚栄心を維持させるためです。人脈を得たいというのも常人の利益を追求するためで、人の顔色を見て媚びる言葉ばかり言うのは自己防衛のためです。常人に執着しているからこそ、思想が歪み、直接に大法に同化することが出来ず、大法の要求通りに行動できなくなるのです。
私たち修煉者に師父はすべてを与えてくださいましたが、なぜ100%法を信じ、師を信じ、正々堂々と自分がやるべきことをやり遂げないのでしょうか。
私の一番の悩みは、大法に従って行動できず、いつも常人の考え、常人の手法で問題を解決しようとしてしまうところです。常人の手法で問題を解決できたとき、大法から答えを見つけることを忘れています。多くの場合、先に常人の知恵を使い切ってから、大法のことを思い出し、法に従って考えているのです。このような思考回路のせいで、本当に多くの時間と資源を無駄にしてしまいました。
病業が現れた同修のように、病業をなかなか放下できず、最後に病院で末期だと言われたとき、かえって放下することが出来たのです。しかし、その「放下」は本当に法理を理解し、関を乗り越えたとは言えません。このような例は各方面にたくさんあります。これはこの迷いの多い世の中で法を得て、真っ先に大法で物事を量らず、大法に従うことが出来ず、「自分のやり方が正しい」という常人の思考方式を放下できない、半信半疑の心の現れなのです。
師父は「皆さんは、常人として百年千年来、骨の髄までしみ込むように形成された人間の理を変えなければ、人間としての表面の殻を取り除くことはできず、圓満成就できません」[1]と説いておられます。
問題が現れたときの第一念が、自分の次元と境界を決めるのです。第一念が人心であるのか、それとも正念なのかが、常人なのか、神なのかの違いだと私は思っています。
この新しい年に際して、自分の修煉において、いつでも物事に正念で対処するように人心を放下し、常人の思考方式を放下し、常人から出ることが出来るように、と願っています。
現段階の悟りですが、適切でないところがあれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」