文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年2月20日】修煉後にトラブルに出遭った時、多くの場合は表面上では「殴られても殴り返さず、罵られてもやり返さない」[1] の状態を保てますが、心の中では海がひっくり返ったかのように平静でいられず、釈然としないのです。
その関を乗り越えられない時、悔しさや怒り、恨み、苦渋に満ちた思いがとめどなく湧いてきて、押さえ切れなくなり、どうしても収まらないのです。なぜ関を乗り越える時にいつもダラダラとして、徹底的に放下できないのでしょうか?
師父は「心性が修煉して上がって来たら、例えば、常人の中で人に罵られても、黙って平然としています。殴られても何も言わず、一笑に付するだけで済ませてしまいます。そうなれば、その人の心性はもうかなり高くなったと言えます」[1] と説かれています。
この段落を暗記する時に、私は分かりました。苦痛を感じたのは、心性が上がってきていないからで、心の中でまだ放下できておらず、目の前の一歩を踏み出すことができないため、関の上に跨って泣いてしまい左右を見たり、うろうろしたり、躊躇していることが原因です。
毎回のトラブルの中ですべての事に沈黙を保つように自分を律し、弁解せず、反論もせず、一挙四得の法理を忘れずに平然として業力を消し、徳に転化し、心性を高め、功に演化されることを常に思い出せば、争いごとや怒り恨んだり、悔しさや涙をたたえて忍ぶことはもうあり得ないのではありませんか? もし毎回、関に遭った時に清風が顔に吹くように痕跡も残さず、心の中で気にしていないようであれば、恨んだり不平を訴えたり、過去の出来事をまた思い出したりすることはないでしょう。要するに、自分が不平不満をこぼして苦悩を感じた時は、まだ放下できておらず、心の中でまだ考えており、計算しているということです。
現段階での個人の理解ですが、「一笑に付す」ことをやり遂げられるように、次のことに注意すべきです。
まず、学法をおろそかにしてはいけません。時間の余裕がある時に『轉法輪』を暗記し、細かい時間を利用して『洪吟』を暗記してもいいでしょう。「学法を怠らざれば変化は其の中に在り」[2] です。また、早急に解決しなければならない問題があれば、それに関する法を暗記してもよいと思います。
自分は「人に罵られても、黙って平然としています。殴られても何も言わず、一笑に付するだけで済ませてしまいます。そうなれば、その人の心性はもうかなり高くなったと言えます」[1] の部分を暗記した後、トラブルに出遭った時に、この基準で自分に照らし合わせ、自分の不足点を見つけるようにしています。たとえば、時には「黙って」いられなくなり、相手に言い返してしまいました。時には「平然として」いられなくなり、心のバランスが崩れてしまいました。時には「一笑に付する」ことが出来なくなり、カンカンに怒ってしまいました。時には「済ませる」ことができなくなり、恨んでしまいました。私は何回もこの部分の法を暗記し、法をもって謎を解き明かし、法をもって執着を取り除き、だんだんと淡泊になり放下することが出来ました。
その次は、執着を放下することです。人は何かにつけて気になる時、すなわちそれを重視しており、軽視できず淡泊になれていない状態です。実はすべての執着は人心や観念による執着に過ぎず、本当の自分には執着が無く求めることもないはずです。何事も放下すれば自然と淡泊になれます。
もう一つは、平然として関を乗り越えることです。トラブルの真っただ中で、修煉者は法をもって量るべきで、常人の理で量ってはいけません。法に則って考えれば自分は一挙四得で、もちろん喜んで平然として受け入れます。常人の角度から見れば彼が私を罵り殴ったから、自分はいじめられ辱められた側になるので、絶対に我慢できません。
最後の一つは、気にかけないことです。自分が納得行かない時、人心に従って思うままに考えたり、悔しく思い込んだりしないように、くれぐれも注意して下さい。さっぱりと気持ちを切り替え、この事に区切りを付けてこのページをめくって下さい。心にかけずに対処すれば、大きい事は小さくなり、小さい事はなくなるのです。心の中でずっと気にするようでしたら、それは永遠に乗り越えられない関門になります。修煉者の頭には法を入れるべきで、憎しみを入れるべきではありません。ですから、いかなることも気にかけないようにすべきです。その考えが頭の中に再び現れた時には絶えずそれを排斥し、一掃し、拒否しなければならず、考えないようにし、恨まないようにし、責めないようにすべきです。
修煉者は法の基準で絶えず自身を律するべきです!
一個人の見解ですが、慈悲なるご指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
[2] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「精進正悟」