文/黒竜江省の大法弟子
【明慧日本2020年3月9日】私は世界で最も幸せな人間です。なぜなら、法輪大法という万古に会えないこの高徳の大法を得たからです。二十数年間、私は自らの経験を以って、法輪大法こそ素晴らしいということを証明し、実証してきました。今日(訳注:2019年11月)は私の修煉体験と経歴を書き、法輪大法が素晴らしいことを全世界の人々に知ってもらいたいと思います!
字が読めない私が『轉法輪』を読むことができた
1996年春の3月と4月、その時私は体が悪くて首が固くなり、夫との関係も悪くて気分が悪く、生きていくのがつまらないと思われてなりませんでした。同僚が私に法輪功を紹介し「法輪功はすばらしいので『轉法輪』を読み、読んでみれば悩みがなくなりますよ」と言いました。私の家の西側に煉功場があり、私は法輪功を煉功しに行くことに決め、2人の子供を共に学校に行かせ、子供t達は少しもためらわずに学校へ行きました。
幼いころ家庭の条件が悪く、私は学校に行ったことがなくて字が読めません。大法を学ぶために、私は『轉法輪』を必ず読み続けようと決めました。私の家の壁に大きなガラスがあり、読めない字を模倣しながらガラスに書き「何て読むの」と2人の子供に聞いては、教えてもらい一字一字を覚えていきました。実際はすべて師父が私に覚えさせてくださったのであり、こうして、私は『轉法輪』を読めるようになりましたが、読み方は流暢ではありませんでした。学法のグループに行って法を学び、私が読む番になるとつっかえ、つっかえ読みました。私に教養がないことを同修は皆知らず「不真面目な同修がおり、あなたのところでつっかえますね」とよく言われました。私がまじめでないと言っているのがわかり、私は帰る道すがら泣き、悔しくなりました。それでも私はやはり学法に行き、他の人が読む時に、私も一緒に読みました。だんだんと、私はスムーズに読めるようになっていきました。
冬は寒くても、私と娘2人は毎日頑張って煉功に行きます。子供はテープレコーダーを手に持ち、私の家は条件がそんなに良くありませんでしたが、合わせてテープレコーダー3台を買いました。最初は小さいのを買い、その後、功を学ぶ人が多くなり、私は再び大きいのを買い、音量が大きくて音質もよかったのです。ある日、煉功をしている時に大雨が降って人がみな散って行き、私と娘2人が残りましたが、それでも、雨の中で抱輪の動作を修煉しました。
師父は私たちを「真・善・忍」に則り、よい人にし、さらによい人にしてくださいます。私が修煉を始めたばかりの時は、まだ「忍」がよく出来ませんでした。ある日やはり夫とケンカをし、実家に帰らなければならないと私は決めました。
翌朝、夫は「お前の師父を夢で見て、師父は『あなたたち家族4人は、3人が大法を得、あなたは騒いではならず、あなたの家の中も外もみなきれいにし、あなたが再び騒ぐならあなたには関わりません』とおしゃっていた。俺は師父にお礼を申し上げると、師父は『顔をあげてください、このようにしてはいけません』とおっしゃった」と言いました。夫はさらに「きつねとイタチがみなこの家から逃げるのを見た」と言いました。それから、私の夫も二度と騒がなくなり、さらに私たちのために食事を作り、私たちが大法を学ぶのを支持しました。私の心はまるで花が咲いたかのようで、嬉しくなり、何をしても心がいつも晴れ晴れとして、人にやさしくなりました。
その時、私の家と五番目の義弟の家族は近所に住んでいました。ある日、私たちが家にいないことに義弟がつけこんで、義弟の家の庭に家を建て、私の家の後の窓が妨害されて開けようとしても窓が開きませんでした。人をバカにしていることは明らかでした。五番目の義弟の妻はさらに私の夫を罵りましたが、私たちは義弟を相手にしませんでした。実際このこと、もし、訴訟を起こしたなら、私たちは訟訴に勝つことが出来たでしょう。
冬に五番目の義弟の家は順調でなくなり始め、義弟は呼吸が苦しくなり、義弟の家の子供はお腹が痛み、病院に行って検査しても何の病気も検出されず、旧正月を過ぎても、日々を快適に過ごす方法はありませんでした。五番目の義弟たちは風水を見れる者に会って見に来てもらうと、その者は「あなたの家の母親(すでに死亡した)はあなたの家の新しく建てた家の中におり、あなたは三番目の兄をペテンにかけ、彼女は三番目の兄の家には入らない」と言いました。
旧正月が過ぎ、五番目の義弟は家屋を解体しなければならず、物を私の家の屋根に置かなければならず、私の家の屋根は平らな屋根で、私の夫は同意しませんでした。義弟に置かせてあげようと私は夫に勧めました。家屋の解体が終わり、義弟の家はよくなりました。その後、私の家と五番目の義弟の家は付き合いがよくなり、義弟は種まき用に自分の小さな土地を私の家族に使わせてくれました。すべて「真・善・忍」に基づいて、よい人になるよう大法の師父が私に教えてくださったことで、このトラブルを溶かしてくださいました。
昔の同修を呼び戻し、学法グループは雨天でも決行する
迫害が起きてから、ある大法学習者は家の中に隠れて同修と接触しようとせず、ある者は家族に見られてから、同修に接触させませんでした。私は何度も不当に連行されてはゆすられ、同修が私を見てもある同修は黙ったままでした。私は同修たちと会う方法を考えました。私の家では小さな土地に種をまき、収穫したインゲンマメは自分で食べず、同修たちの家に持って行き、引き続き修煉するようにと同修たちを励まし、大法から離れないように励まし、師父が新経文を発表されると私は同修たちに送りました。
私が心が温かい人間であることを師父がご覧になり、この一かけらの同修たちにも団結力があり、私が歩む道を按排してくださり、私は引っ張られるようにこっちに行ったり、あっちに行ったりして周りの同修に会って説得し、みんな修煉の中に戻って来ました。ある同修は私に「あなたは彼らに会いに行ってはならず、彼らは大法の中に戻って来れるのですか? それよりも時間があるのなら、人を救いに出て行きましょう。そして次々と救いましょう」と言いました。私は「一人一人を呼び戻すことができ、師父は真の弟子を一人も落としたくないはずだ」と思いました。
私は昔の同修のAさんに会いに行き、大法修煉に戻ってくるように、と勧めました。Aさんが戻った後、Aさんがいる市の文化部長の夫も修煉を始めました。文化部長の夫はさらに外で煉功しても、誰も口出ししませんでした。ある時、文化部長の夫の頭がスチームにぶつかりましたが何事もなく、コブも出来ませんでした。
私は同修のBさん夫婦に会いに行き、Bさん夫婦は大法の修煉に戻って来ました。Bさん夫婦はテレビを見ており、私が行っても私を相手にせず、それでもあきらめずに何度もBさん夫婦に会いに行き、最終的にBさん夫婦も戻って来ました。Bさんの家の子供も大法を大切にし、さらに、大法弟子を助けてこれを修理したり、あちらを整理したりして、一銭もとらずに、時には夜中までも仕事をしました。
同修のCさんは地方の息子の家から戻って来て、私に会いに来て「煉功しなければなりません」と言い、私は自分が持っている大法資料をすべてCさんにあげました。Cさんは1年修煉して再び息子の家に行き、今回は息子の家で転んで足をケガして、戻ってきた後「もう行かない」と言いました。ここ数年、私はずっとCさんをあきらめずにいました。Cさんもずっと一緒に修煉して戻って来て、紅斑性狼瘡を患いましたが、薬を飲まずによくなりました。Cさんの息子は他の県の公安局の小頭(訳注:少人数の部下をまとめる長)で、母親の変化を見て非常にうれしくなり、母親が帰って来たのを見て、出かける時に、師父に香を捧げお辞儀をし、師父の母親に対する慈悲なる済度に感謝申し上げました。法輪功の真相がわかると、「三退」しました。
同修のDさんの娘は地方に勤めており、婦人病を患って月経が正常でなく、月経が来るとお腹が痛くなってのたうち回り、豆粒のような汗を流し、少なからぬお金を使ってもよくなりませんでした。Dさんの娘の医者の友人は「治らないし、さらに、よくない方向に進行しています」とDさんの娘に伝えました。Dさんは娘に大法を学ばせましたが、Dさんの娘は言うことを聞かず、Dさんとよく言い合いました。私は、法輪大法とは何か、大法のすばらしさをDさんの娘に伝えました。私は「病医学とかでは治せません。大法を学ぶのに1元も必要なく何の支払いもいりません。あなたは自身の体がよくなるために、ただ少し早めに起きて大法書籍を読み、煉功し、自身が体験してみればわかります」と言いました。私が話し終わると、Dさんの娘は「学びます!」と言いました。
しばらく学んでから再び産婦人科に検査に行くと、症状は好転して手術の必要はなくなり、医者はみな不思議に思いました。よくなってから、Dさんの娘は学法と煉功をゆるめてしまい、再び再発しました。私はDさんの娘に「修煉はごまかすことが出来ず、師父にお礼を申し上げ、新たに修煉し直しましょう」と伝えました。Dさんの娘は再び真面目に学法と煉功を行ない始め、さらに良いことに婚約者を見つけて結婚しました。それから月経は正常になり、Dさんの娘の夫も支持してくれ、娘が煉功すると、娘の夫は協力してテレビの音を小さくしてくれます。ある時、Dさんの娘は私に電話をしてきて「おばさん、安心してください、言ったことは実行していますよ!」と言ってくれ、その意味は、堅く修煉を続けていくということでした。
ある日、私は以前の同修のFさんの家に行き、ずっとドアをノックし続け、やっとドアを開けてくれました。ドアが開くと私は大変驚きました。同修のお腹が大きく腫れ上がり、元気がありませんでした。私は「どうして発正念しないの?」と言うと、Fさんはどのように発正念するのか、そのやり方を知りませんでした。私は「ペンを持って、私の言うとおりに書いてください」と言いました。私は師父が説かれた発正念についての法を暗唱し、Fさんは書き写しました。翌日、私は別の同修の家に行き、中に入るとなんとFさんがその同修と学法しているのが目に入りました。こんなに早く良くなったのですね!
Fさんは私に「あの日あなたが師父の法を暗唱してくれた時、私は書きながら冷気が下に向かって降りて行き、書き終わるとすぐに全身が楽に感じ、よくなりました」と言いました。
ある年配の旧い同修の夫は同修に対して厳しく見ており、私が行く回数が多くなると、その同修の夫は機嫌が悪くなりました。そこで、私は息子の嫁に頼んで新経文をうまく同修の手に届けてもらいました。同修はゆっくりですが、確固としてきました。
ある年「5.13」になり、私は同修みなを呼んで一緒に、師父のお誕生日を祝いました。私は師父のために大きなバースデーケーキを買い求めました。同修たちが皆やって来て、一堂に集まり感動しました。なぜなら、これは大法が迫害されて以来、はじめて一堂に集まったからで、みな喜びました。
1999年7.20、江沢民が法輪大法を学ぶこの良い人達への残酷な迫害を発動し、さらに大法の師父を「私腹を肥やしている」と誹謗中傷しましたが、私と娘たちの3人はこんなにも長年修煉しているのに、師父は私たちに一銭も要求したことなどありません。私は大法を学んで体がよくなり、一人で3人分の仕事を行ない、さらに、家では医療費と薬代を切り詰めることが出来ました。警官が私の家に来て不当に家宅捜索を行ない、カセット・テープ・レコーダーや大法書籍などを車に押し込み、2万元(およそ30万4000円)近くをゆすり取り、私の夫を困らせました。
このような状況下で、私は窓を閉め、夜はさらに続けて同修が私の家に来て法を学びました。私が不当に拘禁されていた期間を除いて、外がどんな状況であるかにもかかわらず、私の家の学法グループは途絶えたことがありません。グループ学法は師父が弟子に残してくださった修煉の道であり、私たちは師父に見守られており、師父の教えの通りにグループ学法を続けています。
今年(訳注:2019年)私たちの地区の学法場所が騒ぎを起こされ、警官が大法書籍を押収しました。同修が来て私に「だめです。私たちのところも数日止めましょう」と伝えました。私は「何でもありません。学法場所は『7.20』から今(訳注:2019年11月)まで、師父がずっと支えてくださっており、師父が加護してくださっており、何でもありません」と言いました。私は「この念を動かすことは出来ず、止めてしまえば、ペテンにかけられたのと同じだ」と思いました。
ある時、同修が我が家にやって来て、我が家の門の所に人が座っているのに気づき、その後も門の前に座ったまま動きませんでした。同修は「尾行ではないですか?」と言いました。私は心を動かさず、「彼が悪人だと思ってはならず、何をしていようと彼も衆生であり、私たちの修煉を妨害させるわけにはいかない。彼に犯罪を犯させて淘汰させてしまうことは、なおさらできない」と思いました。私は正念を発して、その人の背後にある邪悪要素を取り除き、何らかの方法で邪悪要素から離れさせるように、と師父にお願いしました。私が発したすべては善念で、すぐにその人は電話を受けてよそへ行ってしまいました。続けて私たちは行なうべきことを行ないました。
私の心にはいつも「学法場所は揺るぎなく前に進まなくてはならず、法がこの世を正す時まで、ずっと続けなければならない」という堅い信念がありました。
私が煉功すると一家も恩恵を受ける
私の家は4人家族で、夫だけがずっと大法の修煉に入らずにいます。その後、修煉に入った息子の嫁2人も修煉者で、私の家の他の身内も修煉者です。江沢民の邪悪政権が法輪功を迫害した後、ある者は修煉しなくなりました。実家に帰り、私は私の二番目の姉にMP3を買って師父の説法を聞かせましたが、姉はきちんと聞かず、MP3を子供にあげて遊ばせていました。その結果、姉は脳血栓になって歩けなくなりました。私は二番目の姉にお守りをあげて「『法輪大法は素晴らしい』と心を込めて念じてください。師父が見守ってくださいます」と伝えました。この時、姉は誠心誠意に「私の妹は大法を修煉している者です。李先生どうか私を見守ってください」と言いました。さらに何度も「法輪大法は素晴らしい!」と念じました。その後、だんだんと回復し、ベッドを下りて食事を作れるようになりました。
私が家族に法輪功の真相を伝える時、私の母親も真相を伝えるのを手伝ってくれます。母親は私の姉に「早く妹と一緒に法輪功を修煉しましょう、彼女の体がどれだけよくなったか見てみなさい。どれだけ仕事をしても疲れないわよ!」と言いました。私の母親は心臓が悪くて気管も悪く、痰をよく吐きます。ある日の朝、私の母親は大きな手が心臓部から下に向かって降りて行くのが見えました。それから母親の心臓病は良くなりました。その後、再び腫瘍を二つ吐き出し、一つは黒で一つは黄色でした。その後は痰をはかなくなりました。私の三番目のおばはよく眠れずに不眠症でした。「法輪大法は素晴らしい」と念じて眠れるようになり、私の三番目のおじは校長で軽度の脳血栓があります。煉功において反応があり、抱輪の動作をすると手が傾いていましたが、数日煉功するだけで正しく腕を上げられるようになりました。
ある年、関里(訳注:万里の長城の一部を構成する要塞で、ある山海関より南の地域をいう)に帰り、私は「『三退』すれば平安が保たれ、私たち大家族は八十数人がみな中国共産党組織を脱退しました」と伝えました。私は2カ月間実家にとどまり、どこかの家で仕事があれば、私はどこにでも手伝いをしに行き、部屋を片づけたり、畑に行って綿を摘んだりしました。私は綿を田畑のへりに摘んでから運びましたが、綿に土は付きませんでした。他の人は途中で置いて「もし、置かなければ綿は重すぎて、腰が痛くて耐えられません」と言いました。そして、綿に土が付いてきれいではなくなります。私の兄弟の嫁は「腰は大丈夫ですか?」とよく聞きましたが、私は「大丈夫よ、何でもありません」とよく言いました。これも大法修煉のお陰でした。
私は字がかけず、党、共青団、少年先鋒隊を脱退した人達に自分で書いてもらい、大作となり、みんな「脱退します、脱退します、脱退します!」と言いました。関里では皆が手間賃に私にお金をくれましたが、私はすべてもらいませんでした。本当に断り切れないものは、そのお金を母親に渡しました。私は母親の家を中から外まできれいに片づけました。帰る時に、母親は泣きながら「この子は最高だわ」と言いました。
私が大法を学びまともな生活を送っていない、と私の弟がよく言って、私とケンカになります。私は弟に「どういう風に私がまともな生活を送っていないのか? 私は大法を学んで体がよくなり、一人で3人分の仕事をしています。体がよくなかったらどうして引き受けられますか?」と聞くと、弟は何も言わなくなりました。今年(訳注:2019年)親と旅行に行き、はるばる遠くへ出かけて行きました。私の姪はみな歩き疲れ、私に疲れていないのかと聞かれ、「疲れていません」と言いました。家に帰ると、姪は疲れてすぐ横になりましたが、家族がマントーを作っているのが見えたので、私は手を洗って手伝いました。家族は私の変化を見て驚き、姪は「おばさん、人が何を言おうとこの功を私も修煉したいわ。私に煉功を教えてください」と言い出しました。そこで、私の大法書籍である『轉法輪』を読むように、残しておきました。
また、弟は太っており、静功を煉る時に坐禅を組む際に、坐禅を組むとすぐに後ろにひっくり返ってしまい、みんなにハハハと大笑いされました。
法輪大法が素晴らしいことを行動で実証する
ある年、私の二番目の兄が病気になり、地方で入院しました。兄嫁は体が悪く、兄のところには他の親族がおらず、私に介護の手助けを頼んできました。私はすぐに行きました。兄が入院している病室は2人部屋で、2家族の看護担当者用のベッドが一つしかありませんでした。規定により2家族の看護は、順番に1家族1泊ずつでした。別の家族の息子の名前は紅ちゃんで、紅ちゃんはそのベッドをつかみながら、自分用にしようとし、そのベッドは自分たちのベッドの近くに置く、と言いました。二番目の兄の娘と紅ちゃんはそのベッドのことでケンカをしました。私は兄の娘と紅ちゃんを離し、兄の娘と紅ちゃんが再びケンカをするのを恐れ、姪(訳注:二番目の兄の娘)に、これからは夜に来てはいけない、と伝えました。そして紅ちゃんに対して「あなたは病室で休みなさい、私は廊下へ行きます。あなたのお母さんは一人息子のあなたが風邪をひいてはならず、あなたが風邪をひいたらお母さんを看護できなくなりますよ」と言いました。紅ちゃんは感動しました。ある日、紅ちゃんは「今晩、あなたは病室で寝てください、僕は外で休みます」。私は紅ちゃんに「おばさんは大法を学んでいるので、大丈夫よ、あなたが病室で寝なさい」と言うと、紅ちゃんは「ありがとうございます」と礼を言いました。
私はどこでも相手のことを考え、台所の流しでも、コンセントでも、みんな他の家族に先に使わせました。私が大変寒い日に廊下で寝ているのを二番目の兄嫁が見て、廊下は風がびゅうびゅう吹きつけており、私のためにインスタントラーメンを作って持って来てくれました。私は食べずに、雇ったヘルパーに食べてもらいました。兄嫁は今はこんなに大変な時なので、私は家に帰って食事をし、兄嫁のお金を少しばかり節約すると、兄嫁は感動しました。
病室に人が来る度に私はその人に大法が素晴らしいことを伝えました。隣り合っている病室の人達はみな私が良い人であることを知っており、院長も知っています。私がどうしてこんなに良い人間なのかと人に聞かれ、「私は法輪大法を学んでおり、そうでなければ、私も人に譲りませんでしたよ」と言いました。その時も恐れたりせず、人に会えば大法が素晴らしいことを伝えました。紅ちゃんの姉の夫は「私の家の妻の弟(訳注:紅ちゃん)は誰に対してもひねくれ者ですが、あなたには心服しています。あなたはとてもすばらしく、あなたが何か言えば彼は言うことをよく聞きます」と言いました。
私たち2家族は付き合いがとてもよくなり、この時に紅ちゃんは変わり「真・善・忍」に基づいて自分を律するという理を私は紅ちゃんに伝え、紅ちゃんはそれを認め、また聞きたがりました。紅ちゃんは「おばさん、僕はあなたに会うのが遅すぎました。もっと早く会っていれば、あのようなことを引き起こすことはなかったでしょう」と言いました。私はこの時初めて紅ちゃんが殺人犯であり、家のお金は他人の罪をかぶるために使われ、その後、商売でも誰も紅ちゃんに当たらず触らずだった、ということを知りました。私は行かなければならず、紅ちゃんと紅ちゃんの姉は2人とも泣き、私の電話番号を知りたがりました。紅ちゃんは「僕は必ずあなたに会いに行きます!」と言いました。
私の二番目の兄の介護が無事終わり、兄嫁は私に1000元をくれようとしましたが、それを断り受け取りませんでした。兄嫁の家の子供はひどく感動し「おばさんは本当に素晴らしい!」と言いました。大法が私を変え、私を知っている人はみな「大法はこんなにも素晴らしい」と言いました。その後、二番目の兄の一家は兄嫁をのぞいて全員「三退」しました。
私は子供の世話をする仕事を見つけました。子供はすでに9カ月で、やせて小さい子供でした。家族は私に「子供は保育器の中で育ち、1カ月経ってやっと落ち着いてきました。今でもご飯を食べたがらず、子供にご飯をあげるのが大きな難題です」と伝えました。私が行った後、様子を変えて子供においしいものを作り、子供を少しあやして一口あげ、半分食べてはもう食べたがらず、私は子供が続けて食べれるように良い方法を考えました。すると、子供は急いでやって来て食べ、子供はお腹一杯になりました。しばらくすると、子供は丸々と太りました。子供の母親は私に「どうやって食べさせたのですか?」と聞きました。私は「心を込めて食べさせました」と言いました。私は一日中楽しくして、子供を見ていると楽しくなり、子供も楽しくなりました。私はこの子供を3年6カ月の間世話をし、その間、子供は薬を1粒も飲みませんでした。子供の家族全員が感動しました。実際私は子供を世話できる人間ではなく、自分の家の子供に対してさえも、辛抱強くありませんでした。大法が私を変え、私はただ細心の注意を払って行ない、辛抱強く子供を世話しただけでした。
子供は大きくなって幼稚園に上がることになり、子供の一家は私に対して名残惜しみました。私はすでに子供の家で仕事をせず、新年や祭日の度に、子供の家族はさらに職場から分けてもらったものを私に送って来ました。我が家の子供が結婚する時にも、子供の家族もやって来ました。一度、私は迫害に遭い、省の薬物依存症者の回復施設に不当に拘禁されました。子供の祖母と祖父が私に会いに来ました。子供の祖母は泣きながら「こんなに良い人がここでひどい目に遭うなんて、あってはならないことです」と言いました。祖母の家には省の中に人がおり、その人に会って私を出さなければならない、と言うので、省の中の人に会いに行かないように私は子供の祖母たちに伝えました。
子供の家にいたその数年間、子供の家に来た客に法輪功の真相を伝える機会が私にはありました。私が真相を伝えた子供の家の親戚と友人は、全員がすべてすっきりと「三退」しました。
真相を伝える中で向上する
法輪功の真相を人々に伝えるために、私は資料を配りに行き、シールを貼りに行きます。出て行き始めたばかりの時、心はとても恐れており、一度貼りに行って後ろに人がいるのを見て、私は驚いてシール1枚を口の中に入れてモグモグ食べました。どんなに恐れても、私は出て行かなければなりませんでした。出て行く時間が多くなると、恐れる心も取り除かれました。
さらにある時、法輪功の資料を配りに出て行き、不注意で、2段の石段から落ちてしまい、足を酷くひねって足の裏が上を向きました。私は「師父、行かなければなりません」と言って、力を入れて足を戻すと痛くなく、再び続けて配ることが出来ました。配り終わって頭をあげると、我が家からはるかに離れていました。こんなに遅くなってしまいどうやって家に帰ればいいのでしょうか? この念がひらめくと、足が痛くなり始め、幸いにも三輪車が来たので、私は3元(およそ46円)払って運転手に家まで送ってもらいました。翌日足を見てみると、足首が黒くなっていました。それでも法輪功の資料が届くと、私はまた配りに出かけました。配り終わると、全身が軽くなりました。
警官が私の家の門口で監視してふさいでいましたが、1年経っても私が法輪功の資料を配りに外に出て行くのを妨害しませんでした。師父が私を加護してくださっていました。
その後、私は電話をかけて人を救い「三退」を勧めることをマスターし、その頃は何十人もの人が三退しました。私は字が書けず、同修に頼んで書いてもらいましたが、同修はみな忙しく、ある時同修が「見よう見まねで出来ないのですか?」と言いました。私はその時怒り「書けるようにならなければならず、まだあなたが必要です」と思いました。その後「これは師父が悟らせてくださったのではないだろうか」と思いました。私は携帯電話で必要な字を探し出すことをマスターし、まねして書き、画数が多い字は、携帯電話で字を大きくし、誰にも頼らなくなりました。同修は「誰が書いた字ですか?」と私に尋ねましたので、「私が書きました」と言うと、同修は「とてもうまく書けています。さらに文字に勢いがあります」と褒めてくれました。すべて師父が私の知恵を開いてくださったのです。
同修のことは私のこと
ある同修が迫害されて路頭に迷い、体に正しくない状態が現れて全身が痛く、腰が抜けてひどい風邪のようになり、一日中意識がぼんやりし、師父が法を伝えるビデオを立ちながら見ていても、いつも眠ってしまいました。我が家で2カ月以上の間、その同修に怒声をかけたことはなく、その同修に対して気遣って励ましました。また、その同修と多く交流して同修を導いて多く学法し、正念を発し、1日に2回煉功しました。その同修はいつも眠たがり、時には私と話す時でさえも10分の間横にならなければだめでした。私は「だめです、あなたが横になれば、旧勢力のあなたへの迫害を認めたことになります」と言って、その同修が励み、気を抜かないように励ましました。その同修はとても苦をなめることができ、どんなに辛くてもその同修はいつも堅持し、すぐに主意識が強くなり、全体的に健康を回復していきました。
またある同修はご飯がのどを通らず、やせて骨と皮ばかりになってしまい、腹ばいになり、我が家に来て1カ月間よろよろとし、その場に腹ばいになり起き上がろうとしませんでした。私はその同修に「前方には光明があり、後方は底も知れないほどの淵です。あなたは前に向かって歩みますか、それとも後退しますか?」と聞きました。その同修ははね起き、学法と煉功と発正念を堅持し、同時にまた、同修自身のここ数年の利益に対する執着と恐れる心などを見つけ出しました。その同修は良くなり、ご飯がのどを通るようになりました。団地でその同修の家族が嫌がらせを受けても、その同修は中国共産党に協力しませんでした。
同修のことは私のことであり、私たちはともに前に向かって歩みました。
師父は私に対してとても慈悲深かったのですが、私は強情でへそまがりで、また教養がなく、師父にご心配をおかけしていました。師父、ご安心ください。何をおいても誠心誠意に他の人に対します。誠心誠意に人を救います。またより冷静になり、これからは注意して私のためにこれ以上、師父にご心配をおかけするわけにはいきません。身近に師父がいつもいらっしゃり、師父が私を引っ張ってくださり、これまで歩んできました。
ありがとうございます、師父!
ありがとうございます、同修の皆さん!
(明慧ネット第16回中国大陸大法弟子の修煉体験交流会)