文/中国の大法弟子 古金
【明慧日本2020年7月9日】(前文に続く)
明王朝の大疫には、多くの奇跡が現れた
前文では、多くの学者が史料によると、明王朝の滅亡の原因はペストによる疫病であったとしたが、ペストによる疫病は清の軍隊には感染しなかったと書かれていることが分かった。また、「映画『大明滅亡』の中の疫病は、どうやって収束したのか?」の中で、当時の医者・呉又可が道家の真言と漢方薬『達原飲』を使って、ペストによる疫病を治療したとされる。しかし、呉医師の治療範囲が限られおり、全国の疫病を治療できないのに、なぜ清の軍隊が天下を取ったことに従い、全国のペストによる疫病が消えてしまったのだろうか?
中世期の黒死病(ペストの別称)はヨーロッパに蔓延し、数十年にわたって奇跡的に消えていったが、その原因は何だったのか? 今でも科学者は非常に不思議だと思っている。明清の史料によると、当時のペストによる疫病は李自成の50万人の軍隊に感染しなかったとあり、李自成が北京に入ってから、北京で盛んであったペストの蔓延は急に止まってしまい、完全に現代人の科学的な認識を覆した。しかも、現代科学が解釈できないことはこれ一つに留まらない。
4、関寧鉄騎も感染しなかったのか?
①呉三桂の関寧鉄騎は、なぜペストに感染しなかったのか?
前文の説明によると、「山海関を守る呉三桂の関寧鉄騎は、李自成の20万人の軍隊と戦った関寧鉄騎は、ペストに感染しなかったと証明したのではないか?」と思う読者がいるかもしれない。
確かにその通りだ。1644年5月26日に李自成の軍は山海関に到着し、呉三桂の5万の関寧鉄騎(実際は鉄騎2万人、他は歩兵)と戦っていた。しかし28日の朝までに、呉三桂の軍は徐々に耐えられなくなった。その時、風の向きが急に変わり、天象は大順の軍(李自成の軍)に大変不利になっていき、清の軍は風の向きを借りて大順の軍を攻撃した。清の軍が手を出す前に、少数の関寧鉄騎は多数の大順の軍と戦い、そして二日間耐えに耐え、その戦闘力はすさまじく強いものとされた。つまり、ペストに感染した軍ではなかったことが分かる。
明朝の末期、ペストは12年間流行していた。特に後期の時、首都北京の疫病の蔓延状況はとても深刻なのに、全国では町の封鎖や外出禁止など対策をいっさい採用していなかった。各地の往来はずっと引き続き行なわれ、呉三桂が鎮守していた寧遠(今の遼寧省興城市)や、山海関などの地域の軍事の補給はすべて首都北京から来ていた。そして、呉三桂の家族も北京にいたが、なぜ、ペストは呉三桂の軍に伝染しなかったのか?
実は、関寧鉄騎はなぜかペストに感染していなかった。その後、呉三桂はこの軍を率いて、大順の軍を追撃し、南明(明の亡命政権)を滅ぼし、河北を通って、山東を平定し、錦州に戻り、また漢中(陝西省漢中市)に入って西北を討伐し、雲貴(雲南省、貴州省)を平定し、さらにミャンマーを攻撃し、また雲南に戻って [1] 、中国の大半を走り回り、ずっと強い戦闘力を保っていた。中には、数え切れないほどの疫病流行地域を通って戦った。ペストによる疫病は幾度も関寧鉄騎のすぐ隣を通り過ぎていたのに、まったく感染しなかったのだ。前文で私たちはすでに「戦馬はノミを除け、ペストを除ける」という仮説について、詳しく弁別して分析した。この仮説のロジックは事実と合わないため、一葉目を蔽(おお)えば泰山が見えない(目先のわずかなことにとらわれると、物事の道理が分からなくなり、正しい判断が出来なくなる事のたとえ)。では明王朝がペストに危害を被り、軍の戦闘力が激減した時、なぜ関寧鉄騎は例外だったのか? 関寧鉄騎は何が違ったのか?
②袁崇煥の精鋭の軍隊は、袁崇煥への迫害に反対した特例
関寧鉄騎は、袁崇煥(えんすうかん)が創建した明朝末期の最強の軍隊だった。天啓6年(1626年)寧遠の戦いで、袁崇煥は1万人でヌルハチの13万人と戦い、4日間でヌルハチの進攻を撃退し、明朝末期の百戦百敗の状況を変えた。
天啓7年の寧錦(寧遠城と錦州城)の戦いで、袁崇煥はホンタイジの6万人の軍と戦った。24日間にわたって戦い、ホンタイジの進攻も見事に撃退した。
崇禎2年、首都を守る戦いに、袁崇煥は関寧鉄騎8000人を率いて、北京の広渠門外(こうきょもんがい)で、清の猛将マングルタイ、アバタイ、ドルゴン、ホーゲ、またモンゴル親王が率いた4万人の精鋭鉄騎を徹底的に撃滅して、数千人を殺した。[2]
この勝利について、多くの学者は非常に不思議だと思っている。袁崇煥は武将ではなく文人なのに、なぜ天下一強い鉄騎を作り上げることができたのか? 当時、清八旗の騎兵の戦闘力はとても強かったのに、兵数が自分の1/5の文人・袁崇煥の騎兵に撃滅されてしまった。当時の軍事文書に、「袁崇煥は自ら戦場に赴き、危うく殺されるところだった。袁崇煥の両方の脇腹に矢が刺さり、まるでハリネズミのようだった。甲冑のおかげで、命は無事だった」[3]と記載している。多くの学者が史料の記載は誇張しているとして、この歴史を述べる時に、はっきりとはその状況を記載せず、簡単に述べた。
袁崇煥が明王朝に迫害されて(冤罪を被って)殺害された後、3万人の関寧鉄騎は三つに分けられ、その中の一つが呉三桂に奪われた。映画に出てくる「関寧鉄騎、天下無敵」のスローガンは呉三桂を誇大視したものではない。この強い精鋭軍隊は呉三桂に従い、中国の大半を走り回って、大順の軍(李自成の軍)、大西の軍(張献忠の軍)、南明の軍を撃滅し、その後、清に反して戦って清の軍に対しても連戦連勝した。康熙帝(こうきてい)は仕方がなく、清の軍が関寧鉄騎と戦うことについて禁止命令を出し、最後には火砲で関寧鉄騎を撃滅した。[4]
関寧鉄騎が疫病の天罰を免れた原因は、戦闘力が強いだけではなかった。人間はペストに対して自然免疫力はない。関寧鉄騎が他の明の軍隊と異なるところは、この軍隊は袁崇煥が創建したことだ。袁崇煥が迫害された後、祖大壽は関寧鉄騎を率いて北京を離れて山海関と寧遠に帰った。表面上では自分を守るためだったが、実は皇帝の命令に抵抗して、袁崇煥元帥の無実の罪を訴えるためだった。崇禎は震えあがり、袁崇煥に祖大壽を呼び戻すようにと命じた。祖大壽はまた軍を率いて戻って来て、5日間に四つの城を取り戻し、袁崇煥を救うために大手柄を立てた。それにもかかわらず、袁崇煥を救うことができなかったが、袁崇煥への迫害に反対するために、関寧鉄騎は全力を尽くした。では、袁崇煥への迫害に反対した関寧鉄騎がなぜ天罰を免れたのか?
5、明朝には疫病が多く、冤罪によって因果が見えてくる
①表面から原因を探すと、科学は「傾向説」「目的論」になってしまう
現代科学はいつも表面から原因を探し、疫病が天災や衛生条件が悪いことによって引き起こされたと認識している。実はこの解釈自体が推測で、事実と合わない。現代の学術界では「古代の凶年と平年は交替循環し、異なる地域にも交替がある」という現象が見つかった。つまり、天災人災は歴代にあるが、明朝のように疫病が常に発生するわけではない。よって以上の解釈は科学的ではない。
科学で解釈できなければ、強引に「現象の一部を掴んで、全体を見ず」に、いわゆる「科学」的な解釈を出すことは、「目的性」が強く、「傾向性」も強くなってしまう。このような「傾向説」や「目的論」自体が片寄っていて、科学的ではなく、基点としても成り立たない。
②明朝には二つの歴史の特徴がある
明朝の歴史には二つの特徴がある。
一つ目は疫病が多いことで、特に明朝の後半の時期はもっとも多かった。統計によれば明朝の歴史は277年間あるが、この277年の間に168年にわたって疫病が発生した。異なる地域に各々の疫病が330回以上、流行していたという。
二つ目は、冤罪が多いことで、明朝は特務機関が最も発達していた。宦官が管轄した東廠(とうしょう:特務機関)と西廠(せいしょう:特務機関)、また錦衣衛(きんいえ:秘密警察)、鎮撫司(軍事法廷)などの機関は、明朝の官吏に対して監視や迫害の仕事をしていた。明の王朝は恐怖を通して国を治めたため冤罪が多く、拷問による迫害はこれまでの歴史において随一だ。そして、法律の上にまた「廷杖(ていじょう:罪があるかどうかに関わらず、皇帝の命令によって杖で官吏を殴り、受刑者はその度に死亡していた)」、「詔獄(しょうごく:詔書によって投獄する)」などもあった。さらに、凌遅刑(りょうちけい:生きている人間の肉体を少しずつ切り落とし、長時間にわたり激しい苦痛を与えて、死に至らす処刑方法)について、レベルを設定した。
③二つの特徴には、因果関係が隠されている
実は明朝には、以上に述べた二つの特徴の因果関係がある。冤罪は疫病などの天災が発生した原因の一つである。昔、災害や病気、あるいは親戚に病気があれば、皇帝は常に天下に大赦を行なっていたという。つまり、朝廷の官吏が帝王に進言し、冤罪を解決して災害を鎮めるようにと諭したことが史料に多く記されている。なぜだろうか。現代科学にはこのようなことが解釈できない。前文の事実によって現代科学の認識が覆されたため、超科学の理で解釈するしかない。
唐の時代の李淳風(りじゅんぷう)の天象に関わる著作『乙巳占』の中に、「以赦解之(天災があったら、大赦を通して、天災を解く)」という言葉がよく出てくる。大赦は直接冤罪を解決できるが、その理由とは? 実は、一部の天災は人間の冤罪に対して、天が下した人間への罰である。よって、大赦を通して冤罪を解決し、天災の根本的な原因を解決してから、自然に対応する天災(天罰)を解決した。『乙巳占』が根本的な原因を隠して、表面的に「大赦を通して天災を解決することができる」と記しているのは、天災の根本的な原因が天機であるため、天機を漏らしたら天罰を受けるからだ。
もし、ある種の学説が正しくなければ、必ず歴史に淘汰される。算命学がそれで、当たる確率が高ければ、その人の能力レベルが高く、当たる確率が低い場合は、その人の能力が低い、あるいは詐欺師だ。当たる確率が低いからと言って、算命学自体が偽物とは言えない。朝廷の官吏が皇帝に冤罪を晴らすよう忠告し、大赦を通して災害を解決するようにしたが、もし全く効果がなければ、歴史に淘汰される。例えば、古代の雨乞いの形、今でも台湾や中国の一部地域に残っているのは、奇跡的な効果があるからだ。例えば、宋太祖は善無畏(ぜんむい:古代インドの高僧)の不朽の肉身を迎えて晴れの天気になるように祈った。[5] 鄭侠は宋神宗(そうしんそう:北宋の第6代皇帝)に、王安石の新法を廃棄するように頼んだのは、旱魃(かんばつ)を止めるために、天から雨を降らせるようにしたからだ。[6] 明朝の王陽明(おうようめい)は祈祷文 [7] を書いて祈雨(きう)した [8] などなど。もちろん、すべての天災が大赦を通して解決するわけではない。『乙巳占』にも、一部の天象の下で、大赦を通して解決することができると書かれている。
④朝廷が犯罪を犯したら、一般民衆を巻き込むことになる
多くの人は「もし、冤罪が明朝の疫病の根本的な原因であるなら、冤罪を起こしたもの、つまり東廠、西廠、暗君などが、なぜ悪の報いに遭っていないのか、なぜ一般民衆が悪の報いに遭ったのか」と聞くかもしれない。
この問題について、「疫病の目」の中ですでに説明した。これは人間に設けられた謎だ。そして天理に合っている。民衆が従い、認め、守り、愚かな君主や国を乱す家臣がやりたい放題やる基盤を作ってしまったため、民衆が先に悪の報いを受けることになった。一般民衆は先に苦難を受けて、目を覚ます機会が与えられ、救われる機会も与えられた。しかし、最も悪い人であれば、最後に悪報に遭い、救われる機会も完全になくなる。崇禎帝と后妃や子供たちの結果がそうではないだろうか?
では、明朝末期の最大の疫病は最大の冤罪に対応しているが、それは誰なのか?
6、三つの奇跡の根源はすべて袁崇煥を指している
①袁崇煥は生きたまま凌遅刑を受け、その罪は極悪であった
多くの人は知っているだろう。明の最大の冤罪は、明を守る第一の功臣、袁崇煥が無実にも崇禎帝に投獄されて、罪名を作り上げられ、最後には明の最も残忍な「凌遅刑」に処された。袁崇煥は「凌遅刑3600刀」に欽定された(実は3500刀あまり)。また切り落とした肉をその場で販売していた。史料によると、朝廷のウソに騙された民は、その惨烈な拷問に対して袁崇煥を罵ったり、袁崇煥の肉を買ったりしたという。袁崇煥は3日間耐えた後に死んだ。民衆はまた袁崇煥の内臓を奪い合って、切り刻み…[9]、その悲惨な光景はこれまでになかった。
北京東城区にある袁崇煥の墓
『明史』には、「朝廷は袁崇煥の家財を没収した時、袁崇煥の家がとても貧しいと知った。袁崇煥の家族は3千里遠くに流された。天下の民衆は袁崇煥はひどい冤罪だと思っている」[10]と記載している。実は天下の民衆と書かれているが、明のすべての民衆ではない。逆に、多くの人は朝廷の虚言を信じて、袁崇煥が売国奴で、死んでも罪を償いきれないと思っていた。だから北京の民衆は袁崇煥に対して、それほど過激な行動をとった。また民間の史書にも袁崇煥は秦桧(しんかい、勇猛な将軍・岳飛を陥れたことで悪名高い)と同じ人間だと書かれている。
当時の疫病に対して、真相を知っているかどうかが、命が残されるかどうかの分かれ目だった。つまり、袁崇煥を迫害していた時、虚言に惑わされて煽り立てるか、或いは袁崇煥の冤罪が分かって袁崇煥に同情するのかの態度によって、疫病が来た時に運命が異なった。すべての行為は疫病神の目から逃れないからだ。「大道は簡を極め易を極める」、『老子道徳経』は、このような天理を述べた。清の軍隊、李自成の軍隊、明の呉三桂の関寧鉄騎はすべて感染しなかったのだ。この三軍の奇跡は、天が明を滅ぼした原因と同じであり、すべて袁崇煥と関わっている。ペストは天が下した天罰で、明王朝は天理に逆らっており、朝廷の虚言を信じる人や、真相が不明の人、或いは天に逆らって朝廷と同じ立場を取った人であれば、すべて明王朝と同じように災難から逃れられない。
②冤罪はよくあるが、大きな疫病はめったに見られないのでは?
「歴史上には大きな冤罪が多すぎて、これまでの説明によると、冤罪があれば、すぐ疫病がもたらされるなら、漢の時代に韓信を殺害した時、また宋の時代に岳飛を殺害した時、すべて冤罪なのに、なぜ漢の王朝や宋の王朝は長く続き、疫病に滅ぼされなかったのか?」と聞く人がいるだろう。
歴史の本質は表面だけでは理解できない。韓信、岳飛が冤罪によって殺されたことについて、天下の民衆や朝廷の官吏はみな真相を知っているので、民衆はこの罪を分担することなく、災難もなく、疫病は王朝の民衆全体に難儀を与えないのだ。袁崇煥の場合は、多くの官吏や民衆が、朝廷の虚言を信じて、迫害を支持していた。真相が分かって、袁崇煥の無罪を訴える人はとても少なかった。
みんながこの迫害を認める時、伝統文化によって、これは「共業」と言う。つまり、共同で作った業力なので、共同で天罰を受ける。つまり、疫病が明王朝を滅ぼした根本的な原因はこれだ。
皇帝が命令を下し、多くの臣下が呼応し、政府が虚言で騙し、民衆が従い、袁崇煥の肉を奪い合うほどになた。天に逆らった虚言と迫害は、疫病の天罰をもたらし、明王朝を滅ぼし、また多くの民衆も道連れとなって死亡した。これらすべての根源は天に逆らった皇帝である。
この歴史の因果応報が分かれば、現在の疫病の根源も分かるだろう。SARSや、新型コロナウイルス(中共ウィルス)、まもなく来る大疫病など、同じ歴史の悲劇を繰り返して、人類が天罰の疫病と直面する時、現代の科学技術は全く役に立たず、真に救済される方法は、歴史がすでに示している。
(完)
参考文献:
[1]『清史稿・呉三桂伝』
[2]『清太宗実録』
[3] 明の周文郁の著作『遼師入衛紀事』(また『遼西入衛紀事』という)
[4]『大清聖祖仁皇帝實録」
[5]『続資治通鑑長編・卷17』
[6]『宋史・鄭侠伝』
[7] 明の王陽明『祈雨辞』
[8]『会昌県志』(1872年の版)
[9] 明末清初の张岱の著作『石匱書』
[10] 『清史・袁崇煥伝』