文/中国の大法弟子
【明慧日本2020年8月11日】
2018年度版の煉功音楽について
2018年度版の煉功音楽が発表されてから、同修たちは様々なルートでこれを手に入れました。私は地元のある同修から最新版の煉功音楽のことを知らされました。私は「前の煉功音楽と違いがありますか?」と聞くと、同修は「何かが入れられたようです」と答えました。具体的に何が入れられたのか説明できなかったのですが、もう一人の同修の所に行くと同じことを言われました。つまり、音楽の内容を変えられたと思ったのですが、聞いてみると、どこを変えられたのかわかりませんでした。ただ、前よりも音楽がはっきり聞こえると感じています。その後、煉功音楽を配布する同修と出会った時、その同修は「この最新版の煉功音楽の中にエネルギーが入れられているのを感じ、煉功音楽をくれた同修も同じ見解だった」と話してくれました。その意味は、自分の体験や同修たちの体験から、この最新版の煉功音楽には「エネルギーがある」という事が正しいものであると証明したいのです。
私がネットで調べたところ、同修たちの体験文章の中に、最新版の音楽を体験したあと、個人的にそれぞれの良さを感じたのですが、明慧編集部ではエネルギーがあるとは言及しませんでした。
師父は「近頃、学習者が修煉の中で認識を高めたのちに体験を話す際、以前の自分の不足を語ることを『汚水を捨てる』ことだと言った人がいますが、完全に修煉の内涵を変えてしまいました。修煉とは神聖なるもので、これは常人の反省と懺悔のようなことではないのです。弟子たちよ! 皆さんは勝手に何らかの言葉を持ってきて、それを皆で用い、皆で語ってはなりません。これこそ、大法の中に人間のものを加えていることではないのですか? 去年、北京の輔導站が言いだした四つの言葉について、わたしはわざわざ、そのために『糾正』という文章を書いたのですが、この問題を重視すべきです。むろん、ほかにも伝えられているでたらめな言葉があります。皆さん、考えてみてください。今日一つ言葉を加え、明日一つ言葉を加えて、時間が長くたてば、次の世代の弟子は、誰が言ったことかをはっきり弁別できなくなるため、徐々に大法を変えてしまうのです」[1] と説かれました。
2018年度版の煉功音楽について、次の世代の弟子は言うまでもなく、私達の世代では、多くの同修は「エネルギーを入れた」とか「エネルギーがある」というような言い方は、誰が説いたのかも弁別できなくなります。大法は厳粛であり、私達は大法に対して真剣に対処しなければなりません。明慧ネットは師父に認められています。私達は情報を伝えるとき、明慧ネットの公告に従って伝えるべきで、勝手に自分の理解と推測などを付け加えてはいけません。もちろん私達の個人的な体験ですが、例え天目で何かを見たとか、自分自身で何かを感じ取ったとかは、同修たちと共有していいのです。ただし、明慧ネットからの公告を伝えるときは、自分の体験を入れない方がいいと思います。さもなければ、人から人へと伝えていく過程の中で、知らないうちに個人的な体験を付け加えてしまうことになるからです。
その他、一部の同修は明慧ネットに掲載された個人的な体験文章は、全部明慧編集部の観点や師父が認められていることを代表していると思い込んでいます。明慧ネットに掲載された個人的な体験は偏っている可能性があります。人による修煉の差もあります。例え間違っている認識があったとしても、それは正常なことで、それは切磋された交流の範囲内に属します。それらを全部明慧ネットの観点だと思ってしまえば、それは間違いです。
修煉者が大法を守ることは大法弟子としての責任です。私は同修を責める気はないのですが、ただ自分の気づいたことを皆さんと分かち合いたいと思いました。同修たちよ、私達の行なうべきことを更によく行ないましょう。適当でないところがあれば、慈悲なる指摘をお願いします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性に漏れなし」